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しかない ひろあき
鹿内 宏明
生誕 (1945-05-26) 1945年5月26日(78歳)
日本 東京都
出身校東京大学法学部第3類[1]
職業実業家
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鹿内 宏明(しかない ひろあき、旧姓: 佐藤、1945年5月26日 - )は、日本の実業家。
フジサンケイグループ会議初代議長の鹿内信隆の娘婿であり、同議会の第3代議長を務めた。現在は株式会社鹿内事務所代表取締役。 東京都出身。父は医師で親族にも医師の多い家系に生まれる[2]。 東京教育大学附属高等学校(現:筑波大学附属高等学校)を経て東京大学に入学。3年の時には小田実が著した『何でも見てやろう』に触発され、ボート部の先輩ら3人とジープを仕立てて、南米大陸を廻る旅に出た[3]。 東京大学法学部第3類(政治コース[1])卒業後の1968年に日本興業銀行(現:みずほ銀行)に入行。大蔵省の経済理論研修に派遣されるなど入行当初から将来を嘱望されていた[2]。入行3年目には人事部に異動。その際に興銀マンは自分の退職を機に息子を入行させたいと思う行員が多く、一定数を認めるのが不文律となっていたが、宏明はそれを人事を停滞させる悪弊と断じ、人事部長にそうした慣習はやめるべきだと進言した[4]。1976年には興銀の海外子会社IBJインターナショナルの立ち上げに携わり、スペインの政府系公社への大規模融資シンジケーション主幹事の地位を獲得した初の日本人として注目を集めた[5]。 この間、1972年11月に鹿内信隆の次女・厚子と結婚した。厚子は母・英子の気性の激しさや兄・春雄、姉・寛子の派手な言動に挟まれて育ったため、早くから控えめにふるまうことを習いとした。また家族内で絶え間なく繰り返される衝突や葛藤に接してきたため、結婚後は、家族に愛情は残しながらも、実家とは距離を置いた[2][6]。こうした経緯から、この時は厚子が佐藤家に嫁いで、佐藤姓に改姓していたとみられる。 1988年、フジサンケイグループ会議議長だった春雄が死去した。これに伴い議長に復帰した信隆は宏明を興銀から退職させ、鹿内家と養子縁組(厚子は鹿内家に復帰)の上で議長代行に就任させた。母の性格を知る厚子は夫のグループ入りに反対し続け、父にも「やめてほしい」と再三懇請するも、信隆は「死んでも守るから」と答えを翻さなかった[6]。宏明のフジサンケイ入りにあたって、興銀の中村金夫頭取や池浦喜三郎会長は手勢を連れず巨大メディアの舵取りは無謀だとして、スタッフを5人でも10人でも連れて行くよう勧めた[7]。だが、宏明は興銀からスタッフを引き連れて乗り込んできたという印象を避けたかったこと、グループの後継者不在という危殆にあたって、望まれ、請われて行くのだとして、単身でのグループ入りを決断した[8]。 1990年、信隆が急死した後に議長に昇格する。宏明の議長就任後は、春雄や信隆を相次いで失った鹿内家の求心力が弱まっていたが、グループの結束力強化を行う目的で宏明が1991年2月にグループの最高意思決定機関である「フジサンケイコーポレーション」[9]の会長兼社長に就くとともにグループの主幹4社(ニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビル)の会長職も兼務した。
来歴・人物