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出典検索?: "鷹司輔平"
凡例鷹司 輔平
時代江戸時代中期
生誕元文4年2月8日(1739年3月17日)
死没文化10年1月8日(1813年2月8日)
改名淳宮(幼名)→鷹司輔平→理延
官位従一位、関白、左大臣
主君桜町天皇→桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇
氏族皇別鷹司家
父母父:閑院宮直仁親王(東山天皇皇子)
母:長祥院(家女房)
養父:一条兼香→鷹司基輝
兄弟始宮治子、輪王寺宮公啓、典仁親王、栄宮尊信、格宮室子、真如高覚、五十宮倫子、鷹司輔平、八千宮元敞ほか
妻正室:毛利重就娘
家女房(山形氏)
子鷹司政煕、徳大寺実堅、隆範、高演、覚尊、円祥、達子、富子、誠子、致子
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鷹司 輔平(たかつかさ すけひら)は、江戸時代中期の公家。藤氏長者。従一位、関白。幼名は淳宮。東山天皇の孫にあたる。兄妹に第2代当主・閑院宮家典仁親王や徳川家治の御台所となった五十宮倫子女王がいる。
閑院宮直仁親王(東山天皇皇子)の第4王子。生母は長祥院(家女房)。五摂家のひとつ鷹司家の養子になり、第21代当主となる。以降鷹司家は皇別摂家となった。 寛保3年(1743年)、鷹司基輝(従二位内大臣)が17歳で急死(5月15日)して鷹司家は断絶の危機を迎えた。基輝の実父で、元々鷹司家から養子に入って一条家を継いでいた当時の関白一条兼香はこれを憂慮して桜町天皇に対して弟の政宮(後の遵仁法親王)を鷹司家の養子にするように願い出た。これに対して天皇は鷹司家から西園寺家に養子に入った西園寺実輔の子孫[注釈 1]から養子を迎えることを提案した。だが、兼香の案は政宮が病弱で摂家の当主は務まらないとする天皇が反対し、天皇の案は摂関が摂家以外(西園寺家は閑院流の清華家)に移ることを恐れた兼香が反対した。そのため、兼香は世襲親王家からの養子を取る旨、天皇より同意を得て、有栖川宮職仁親王の第5王子である律宮と直仁の王子である淳宮のいずれか、もしくはいずれも不可とするか、春日大社に使者を発して後継の神託を求めた。春日大社での占いの結果、直仁親王の王子である淳宮が養子に選ばれた[注釈 2][3]。そこで兼香はまず淳宮を桜町天皇の猶子(10月4日)とし、続いて氏姓を藤原姓とするために自分の養子に迎えた(同27日)上で一条家からの養子という形式で鷹司家を相続させた。 延享2年12月7日(1745年)、元服。寛延6年(1756年)、内大臣。天明7年(1787年)、関白に就任して自分と同様に閑院宮家から皇室に入って即位した甥の光格天皇(実兄である典仁親王の実子、安永8年(1779年)即位)をよく補佐した。
略歴