鷲宮神社
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この項目では、埼玉県久喜市鷲宮の鷲宮神社について説明しています。その他の鷲宮神社については「鷲宮神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

鷲宮神社

大鳥居(現存せず)
所在地埼玉県久喜市鷲宮一丁目6番1号
位置北緯36度6分0秒
東経139度39分18秒座標: 北緯36度6分0秒 東経139度39分18秒
主祭神天穂日命
武夷鳥命
大己貴命
社格准勅祭社
県社
別表神社
創建(伝)神代(別宮・神崎神社)
(伝)景行天皇の時代(鷲宮神社)
例祭3月28日
地図鷲宮神社
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鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)とは、埼玉県久喜市鷲宮一丁目に所在する神社である。「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称する。天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神とする。

なお、本記事で取り上げる本社の鷲宮神社だけでなく、旧太田荘周辺には数多くの同名の分社が存在し[1]、久喜市内にも下早見[2]に2社、後述する八甫[3]に1社鎮座している。

国名を冠し「武蔵国鷲宮神社」と呼称することがある[4]目次

1 概要

1.1 由緒

1.2 異説

1.3 歴史


2 祭神

2.1 過去の祭神


3 文化財

3.1 重要文化財(国指定)

3.2 重要無形民俗文化財(国指定)

3.3 県指定有形文化財

3.4 県指定史跡


4 祭事など

4.1 神社の神事

4.2 地域の祭事

4.3 神輿


5 境内

5.1 社殿と境内社

5.2 その他


6 関連寺社

7 交通

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

11 外部リンク

概要
由緒 拝殿 本殿

社伝によれば、出雲族の草創に係わる関東最古の大社とされ、かつては「鷲宮大明神」、「浮島大明神」、「大酉元祖」とも称された。

神代の昔、天穂日命と御子神の武夷鳥命が東国を経営するため、お供の昌彦・昌武の父子と出雲族27人の部族と共に当地に到着し、地元の部族と共に当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。これが、現在の別宮である神崎神社であった。その後、日本武尊が東国平定の際に当地を訪れて戦勝祈願を行い、別宮を建てて天穂日命と武夷鳥命を祀ったという。この別宮が現在の本殿である鷲宮神社とされる。

ただし、これらのことは『延喜式神名帳』や『国史』に記載がない。
異説

別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇時代河内国から東国へ移住した土師氏が下総国浅草から古利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている[5]。そして、「はにしのみや」がいつしか訛り、現在の「わしのみや」になったとされる。後述する神楽は、伝承に基づいて「土師」の名称を用いている。

また14世紀ごろに成立した『神道集』によれば、伊予国一宮の大山祇神社の三嶋大明神と摂社の鷲大明神が東征し、三島大明神は伊豆国一宮の三嶋大社に、鷲大明神は武蔵国太田庄の鷲宮神社に移り住んだとされる[1]

江戸時代初期に当地を訪れた林羅山や、自身を「室八島」と称する大神神社の当時の調べでは、「室八島惣社大明神」とも称されていた[1]
歴史

鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っているものの、歴史資料に現れるのは『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の記載が最初であり[1]、この主張は根拠を欠いている。「関東最古」と称するようになった時期は不明だが、吉田神道により、遅くとも享保18年(1733年)に完成した『神名帳考証』までには延喜式内社前玉神社論社に比定され、後に鷲宮神社もそれを受け入れている[1]。明治以降、「前玉神社の論社」とは名乗らなくなったが、「関東最古」はそのまま残った。なお、発掘調査によって縄文時代の遺跡(鷲宮堀内遺跡)が見つかっており、古くから住民がいたことはわかっている。

中世以降には本社周辺の地域が将軍領・太田荘となり、総社・総鎮守として扱われたことから[1]関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けた。建長3年(1251年)、北条時頼が当社に奉幣祈願したことが『吾妻鏡』にあり鎌倉幕府の祈願所として扱われていた[1]ほか、藤原秀郷新田義貞古河公方関東管領の歴代上杉氏後北条氏などが幣帛の奉納、神領の寄進、社殿の造営などを行っている。鎌倉時代から室町時代までは太田荘の総社であったため藤原秀郷流太田氏が収め、南北朝時代頃からは下総国守護の小山氏が管理しており[1]、裏手には栗原城という城郭が存在した。応安5年(1372年)には小山義政が社殿を再興している。また、太田荘内、中川(古利根川)沿いには多数の分祀が生まれた。

天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し、歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵した(朱印地)。小山氏が滅んだあと、戦国時代ごろから宮司職は明暦3年(1657年)の『鷲宮神社縁起棟札』によれば祭神の良岑安世の子孫とされる大内氏に代わり[1]江戸時代初期から明治時代初期までも引き続き、神社所領は大内氏が治めた(所領約1000石)。江戸時代初期、徳川家光日光東照宮を参拝した際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は利根川に落水した家光を助けた。この功により、本来ならば領地を加増されるところであったが、関ヶ原から間もない時期でその余裕もなかったためか、その代わりに江戸城内での1万石の格式を与えられた。そのため、江戸城への登城時は大名が通される部屋に通されたほか、大内氏の用人は江戸城内では「家老」待遇となったと伝えられる。

供僧としては、新義真言宗豊山派の大乗院・万善寺・福伝坊・実相院・宝珠院が存在し、その中でも大乗院が僧頭(別当寺)の地位にあった[1]


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