鶴見和子
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鶴見 和子
人物情報
全名鶴見 和子
生誕 (1918-06-10) 1918年6月10日[1]
東京府麻布区狸穴町[1]
死没 (2006-07-31) 2006年7月31日(88歳没)
学問
活動地域 日本
アメリカ合衆国
研究分野比較社会学国際関係論
研究機関上智大学国際関係研究所
学位ヴァッサー大学哲学修士号[2]
プリンストン大学社会学博士号[3]
影響を受けた人物河合栄治郎[4]
柳田國男
南方熊楠
イヴァン・イリイチ
主な受賞歴毎日出版文化賞
南方熊楠賞
朝日賞
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鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年大正7年)6月10日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本社会学者上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学南方熊楠柳田國男の研究などでも知られる。
来歴
生い立ち

1918年6月10日東京府麻布区で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの1番目(長女)として生まれる[5]

牛込成城小学校から1927年4月に成城学園に移り[6]、1929年4月に女子学習院5年へ転校[7]。1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける[4]。1936年3月、女子学習院を卒業し、同年4月、津田英学塾へ進学[8]。1937年7月、オーストラリアで国際会議に出席する父に同行し、初めて海外へ[9]。翌年夏には両親と米国へ渡航[10]

1939年3月、津田英学塾を卒業し、同年9月に米国・ヴァッサー大学大学院(哲学専攻)に入学[11]。1941年に同大学院の哲学修士号を取得し、コロンビア大学大学院(哲学科)へ進学[12]。1942年6月、同大学院を中退し、ハーバード大学を卒業した弟・俊輔と共に日米交換船で帰国[13]。帰国後は東京に住み、市政会館内にあった太平洋協会のアメリカ分室に勤務した[14]。1945年頃、父と2人で東京に残り、ほか家族は軽井沢の別荘で雑居[15]。戦争末期には父と熱海へ疎開した[16]
戦後

1946年、弟・俊輔、丸山眞男武谷三男と4人で「思想の科学」同人会議を開き、同年、雑誌『思想の科学』を創刊[17]。この頃、共産党に入党し、党が所感派国際派に分裂した1950年頃まで党員だった[18]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1952年に、「生活綴方」運動の指導者国分一太郎と出会い、「日本作文の会」の第1回作文教育全国協議会に招かれる。[要出典]1955年2月、国際民主婦人連盟の招請により、スイスジュネーブで行われた世界母親大会準備会に出席[19]。[いつ?]『山びこ学校』などの綴り方教育の実践報告に触発され、会の席上で提言した「自己を含む集団の研究」の方向性を模索すべく、同年牧瀬菊枝らとともに「生活をつづる会」を立ち上げる。[要出典][いつ?]四日市東亜紡織泊工場にて澤井余志郎を中心とした女子工員らのサークル「生活を記録する会」に出会い、その交流はやがて『母の歴史』『仲間のなかの恋愛』の出版、また東京演劇アンサンブル(劇団三期会)による集団創作劇『明日を紡ぐ娘たち』(広渡常敏脚本)への公演に結実する[要出典]。

1957年、歳末から流感のあと肋膜炎・肺浸潤を患い、1年間療養生活を送る[20]。回復後、1959年6月の参院選に出馬した父・祐輔の選挙活動を支援[21]。同年11月、父・祐輔が脳軟化症に倒れ、1年間の入院の後、自宅療養生活に入る[22]。鶴見は成城の自宅と軽井沢の別荘を処分して父が政治活動のために負った借金を返済し、父とともに練馬区関町に購入した自宅へ転居[23]

1962年9月、米国・プリンストン大学社会学部大学院に入学し[24]、1964年4月に同大学社会学博士の資格試験に合格[25]。並行してトロント大学ブリティッシュコロンビア大学で客員教授として講義し、1964年9月からブリティッシュコロンビア大学助教授をつとめた[26]

1966年4月、成蹊大学助教授[27]。1966年12月、渡米しプリンストン大学社会学博士号を取得[3][28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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