鶴田知也
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鶴田 知也
明るい生活社『明るい生活』第64号(1958)より
誕生高橋 知也
1902年2月19日
福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区
死没 (1988-04-01) 1988年4月1日(86歳没)
東京都中野区
職業小説家、農業指導者、草木画家
最終学歴福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館高等学校)卒業
活動期間1927年?1960年代
ジャンルプロレタリア文学、農民文学
代表作『コシヤマイン記』(1937年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1937年)
小学館児童文化賞(1955年)
デビュー作『子守娘が紳士を殴った』(1927年)
配偶者野島勝子
影響を受けたもの

葉山嘉樹

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鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 1988年4月1日)は日本の小説家、農業指導者。小説『コシヤマイン記』で第3回芥川龍之介賞を受賞したことで知られる。
目次

1 来歴・人物

1.1 幼少期

1.2 「文芸戦線」での活動

1.3 『コシヤマイン記』発表と農民文学への転向

1.4 戦後、農業指導者としての後半生


2 主な作品

3 著作

4 注釈・脚注

4.1 注釈

4.2 脚注


5 外部リンク

来歴・人物
幼少期

1902年(明治35年)2月19日、福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区)でに高橋乕太郎、アサの三男として生まれる。実父乕太郎は植村正久門下のクリスチャンであり、リベラルな知識人として知られていた。兄弟に音楽家高橋信夫、画家の福田新生がいる。1909年(明治42年)、7歳の時に母アサの兄にあたる鶴田和彦、ミヨ夫妻の養子となり鶴田姓となる。鉄道技師であった養父和彦の転勤に伴い、小倉市直方市田川市大分市の小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校で卒業した。

1915年大正4年)、仲津郡豊津村(現:京都郡みやこ町)の福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館高等学校)に入学。同校の先輩に堺利彦葉山嘉樹がいる。特に葉山は実父乕太郎と親交を持っており、中学時代に高橋邸より通学していた鶴田の人格形成に深い影響を与えている。中学校時代は乕太郎や葉山の影響で文芸活動に勤しみ、中でも北海道山越郡(現:渡島総合振興局八雲町の開拓記録である都築省三『村の創業』に大きな感銘を受ける。また、乕太郎の蔵書からユニオン神学校倫理学教授であったハリー・F・ウォード(英語版)の『労働者の為めに』(原題『The Labor Movement, from the Standpoint』)を知り、キリスト教社会主義に共鳴する。

1922年大正11年)に同校を卒業。乕太郎の勧めでその師・植村がいる東京神学社に入学。そこで八雲町出身で後に同町長となる真野萬穰の知遇を得る。彼の勧めで八雲町に八ヶ月ほど、様々な職を体験しながら逗留することとなる。その地で後に彼の執筆活動に大きな契機を与える農業技術員の大田正治[注釈 1]やユーラップ・コタンの首長イコトルに出会うなど、八雲町は鶴田にとって第二の故郷と云える重要な場所となった。やがて信仰の在り方に疑問を持ち、神学社を退学して帰郷する。

帰郷した鶴田を待っていたのは、名古屋労働者協会を設立し、サンジカリズム系労働運動のリーダーとして活動していた葉山であった。彼の勧誘で同協会に入会し労働争議などに関与するも、協会に危機が迫っていることを予知した葉山は鶴田を帰郷させた。その直後、1923年大正12年)6月に、後に「名古屋共産党事件」と呼ばれる検挙によって葉山は入獄。やがて獄中に執筆した『淫売婦』、『難破』(後に『海に生くる人々』と改題)によってプロレタリア文学作家として知れ渡るようになる。その間、鶴田は郷里・豊津で弟信夫の主催する文芸同人誌に参加し、後に妻となる野島勝子に出会う。また、1926年大正15年昭和元年)には姉・豊子を訪ねて朝鮮半島に渡り、民族問題に関心を寄せる。
「文芸戦線」での活動

1927年昭和2年)、帰郷した鶴田は再び葉山の勧誘を受け上京し、労農芸術家連盟(労芸)に加盟。11月、「文芸戦線」誌に『子守娘が紳士を殴った』で作家デビューする。折しも葉山らが日本プロレタリア芸術連盟から追放され、その後山川均の論文掲載を巡って蔵原惟人が労芸を脱退するなど、左派芸術家たちが四散分裂を繰り返していた時期だった[1]。この年、野島勝子と結婚。

鶴田はその後、労芸が1932年昭和7年)に解散し、「文芸戦線」が終刊するまで同誌を中心に活動を展開した。鶴田が活動した時期は1928年3月15日の左翼大弾圧や五・一五事件を契機としてそれまで地下にあった共産党系左翼組織が結合。中野重治を中心とした全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成に至り、従来の社会主義系組織と対立するようになった時期である。1928年に「戦旗」誌が創刊し、小林多喜二徳永直が華々しくデビューしたのとは対照的に、労芸と「文芸戦線」は様々な内紛によって、「文戦」「レフト」「新文戦」と縮小していった。この時、ともに終刊まで筆を並べていたのが終生の盟友となる伊藤永之介である。

「文芸戦線時代の作品として、蔵原に評価された『海鳴り』(1928年)と、それを軸としてイコトル首長を登場させた『闇の怒』(1929年)がある。また、1930年には文芸誌「若草」に八雲町を舞台とした第一号作品、『ユーラップ河の秋』を出している。1933年には『コシヤマイン記』の前身と云えるアイヌを主題とした叙事詩的作品、『ペンケル物語』を「レフト」にて発表した。

だが、「文芸戦線」に参加した5年間に書き上げた作品はその後単行本として収録されることはなく、『海鳴り』や『闇の怒』など数作が鶴田の最晩年、1985年に編纂された『プロレタリア文学集11 文芸戦線作品集 第二巻』に収録されたのみである[注釈 2]
『コシヤマイン記』発表と農民文学への転向

プロレタリア文学そのものが1933年の小林虐殺による終焉を迎える中、生活苦のために家族ぐるみで共同生活を送っていた鶴田。伊藤は1936年昭和11年)1月、同人誌「小説」を出版。その一ヶ月後、2月に代表作となる『コシヤマイン記』を発表する。林房雄によって推挙された同作は同年8月、小田嶽夫の『城外』とともに第3回芥川賞を受賞。同賞の懸賞金で八雲町を再訪しており、酪農を軸とした新たな農民文学を志すようになる。

『コシヤマイン記』を契機に、昭和10年代以降はプロレタリア文学から離れ、穏当な農民文学へと移行していった。1937年から41年にかけて、現在『コシヤマイン記』とともに講談社文芸文庫に収蔵されている、『摩周湖』(37年)『ピリカベツの駅逓』(38年)、『ベロニカ物語』『ポプラの墓標』(40年)、『ナンマッカの大男』『ニシタッパの農夫』(41年)といった「北海道もの」が執筆された。また、40年には葉山を題材とした『我が悪霊』を刊行している。

この頃になると戦時体制による統制は著しいものになり、40年には日本出版文化協会が設立され、出版用紙の割当は完全に国の統制下に置かれた。1943年には書籍・雑誌出版社が十分の一に整理された。そのような社会の中で、国策との軋轢を生まないような作風を選んできた鶴田の作品は、戦争が進むにつれ、あからさまな戦時協力体制むき出しの作品へと変化していった。1944年に刊行した『土の英雄』は国家総動員体制で一致団結した開拓民の子の成長物語であり、被征服民の苦しみを描いた『コシヤマイン記』と対立するものであった。
戦後、農業指導者としての後半生

戦況が厳しくなった1945年に、鶴田・伊藤両一家は秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)に疎開する。


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