つるたのりお
鶴田法男
生年月日 (1960-12-30) 1960年12月30日(63歳)
出生地東京都
職業映画監督、脚本家、小説家
公式サイト ⇒http://www.howrah.co.jp/tsuruta/
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鶴田 法男(つるた のりお、1960年12月30日 - )は、日本の映画監督、脚本家、小説家。
「Jホラーの父」、「Jホラーの先駆者」と呼ばれる[1]。2010年より「三鷹コミュニティシネマ映画祭」にスーパーバイザーとして協力。アンドリーム(&REAM)所属。 東京都生まれ[1]。実家は東京都三鷹市で映画館「三鷹大映」を経営していた(大映倒産後は「三鷹東映」を経て、名画座「三鷹オスカー」となり、1990年に閉館)。和光大学経済学部卒業後は船井電機に就職。ちょうどフナイがVHSに参入した時期であり、フナイ傘下のビデオソフト会社である「HRSフナイ」で海外のマニアックな映画を買い付け、VHSで盛んにリリースした。その後、映画配給会社のギャガに転職し、宣伝業務に従事した[1]。しかし、映画監督の夢を捨てきれず脱サラ[1]。フナイでマニアックな海外映画を買い付ける仕事は後輩社員の志村大祐が引き継いだが、志村も結局、独立してザジフィルムズを設立した。 1991年、自ら企画した同名ホラー・コミックのビデオ映画化『ほんとにあった怖い話』でプロ監督デビュー[1]。1992年にかけて、『ほんとにあった怖い話/第二夜』、『新・ほんとにあった怖い話/幽幻界』のシリーズが製作された(脚本家として小中千昭も参加)[1]。1999年、テレビ『学校の怪談』を皮切りにテレビ界にも進出、『ほんとにあった怖い話』をフジテレビの2時間ドラマとして完成させた[1]。2004年春、SMAPの稲垣吾郎をメインとしたレギュラー・シリーズとなり、同年秋から2005年春にはセカンド・シーズンが放映され、鶴田はメイン監督を務めた[1]。 2004年、つのだじろうの「恐怖新聞」を原作とした『予言』を発表[1]。2007年、米国のテレビ・シリーズ『Masters Of Horror』の一編『ドリーム・クルーズ』(日本では劇場公開)を撮り全米進出[1]。2008年、楳図かずお原作の『おろち』を映画化[1]。本作は同年の釜山国際映画祭に招待された[1]。 2020年、中国映画に招かれて監督した『戦慄のリンク』(原題:网?凶?/ワンリューシュンリン)が中国国内5,000館で公開。2022年、日本国内で上映が開始された。 高校、大学を通じて自主映画を製作[1]。オリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話』シリーズ、及びそれに続いて発表した『悪霊怪談/呪われた美女たち』(1995)、『亡霊学級』(1996)などのオリジナルビデオ・ホラーの恐怖演出が、Jホラーの映画作家たちに影響を与えた事から「Jホラー 2001年の黒沢清監督作品『回路』のコンクリート壁の地下室に登場する赤いワンピースの女の恐怖シーンは、その9年前に発表された鶴田のオリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話/第二夜』に収録されている『夏の体育館』に登場する赤いワンピースの女の恐怖シーンと酷似している。また黒沢は『CURE』(1997年)を発表する前年に、鶴田のオリジナルビデオ『亡霊学級』の宣材物に「一度本物の幽霊を見てみたいと思っている方に、鶴田映画をお薦めする。あそこに写っている幽霊は紛れもない本物だ」と推薦コメントをよせている(黒沢清「映画はおそろしい」青土社に載録)。「ユリイカ臨時増刊/総特集・怪談」(1998年)での鶴田と高橋洋の3人で行った鼎談でも、黒沢は鶴田作品を賞賛している(黒沢清「恐怖の対談」青土社に採録)。 清水崇は『THE JUON/呪怨』(2004年)撮影中のスタジオに鶴田が訪れた際、オリジナルビデオ『新・ほんとにあった怖い話/幽幻界』(1992年)収録の『踊り場の友だち』の恐怖演出を真似させて欲しいと許諾を求め、鶴田はこれを快諾した。1992年の鶴田作品『踊り場の友だち』には階段を駆け上がった女子高生が踊り場を通過する際に、うつむいてたたずむ少年のカットが一瞬挿入される恐怖シーンがある。それを真似て、『THE JUON/呪怨』の中でテッド・ライミが階段を下りて来て踊り場を通過する際に一瞬「俊雄」のカットが挿入されるシーンが生まれた。(和光大学12-11-04、鶴田法男の講演より)
経歴
人物像
Jホラーの先駆者
Jホラー作家に与えた影響