鶴林寺
本堂(国宝)
所在地兵庫県加古川市加古川町北在家424
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分8.2秒 東経134度49分57.3秒 / 北緯34.752278度 東経134.832583度 / 34.752278; 134.832583
鶴林寺(かくりんじ)は、兵庫県加古川市にある天台宗の寺院。山号は刀田山(とたさん)。本尊は薬師如来。加古川市街地のすぐ外側(市役所と明姫幹線の間)に位置する。近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいうが、創建の詳しい事情は不明である。平安時代建築の太子堂をはじめ多くの文化財を有し「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。宝物館は新西国三十三箇所第27番札所で本尊は聖観音(あいたた観音)である。 伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時物部守屋に迫害されて播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために秦河勝に命じて建立させたという。養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。 ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったとみられている。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。 鶴林寺には飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像「あいたた観音」があり、本堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像である。 現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉時代・室町時代には太子信仰の高まりもあって寺坊だけで30数箇坊以上を有する規模であり、寺領も2万5千石を有し、聖徳太子以来の法華経講讃の寺として繁栄した。 戦国時代には近隣の圓教寺が戦火に巻き込まれるなどしたが、姫路領主だった黒田職隆、黒田孝高親子の説得で織田信長派となり戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存している。のちに福岡藩の大封を得た黒田家は鶴林寺にて大規模な法要を行い、礼として金銀を寄進した。寺には職隆、孝高と交わした書状が多数残っている。 しかし、江戸時代に入ると次第に衰微し、塔頭8箇坊、寺領117石にまで落ち込んだ。明治時代となり神仏分離が行われると塔頭は宝生院・浄心院・真光院の3箇寺のみとなり、山陽鉄道(今のJR神戸線)の加古川駅が開業するとそちらに門前町が形成され鶴林寺そのものは鳩里村に属する田園地帯の中であった。 境内および塔頭の周囲三方が鶴林寺公園
歴史
本堂本堂細部 扉は桟唐戸。組物は肘木を前方に2段持ち出した「二手先」とし、組物間に置く中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)と双斗(ふたつと)を組み合わせたものである。
国宝[1]。堂内の宮殿(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)銘から応永4年(1397年)の建築とわかる。入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間(「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する)。和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸(縦横に桟を組んだ扉)を多用する点が特色である。内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(各重要文化財)を安置する。[2]
太子堂太子堂
国宝[3]。屋根板の鎌倉時代の墨書から天永3年(1112年)の建築と分かる。兵庫県では現存最古の建築物である。本堂の手前右方に建つ。堂内に壁画の聖徳太子像があることから太子堂と呼ばれているが、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、延暦寺、日光の輪王寺などに例がある)。屋根は宝形造(四角錐形の屋根)、檜皮葺き。桁行(正面)、梁間(側面)とも3間の主屋の前面に梁間1間の孫庇(礼堂)を付した形式になり、側面から見ると、主屋と孫庇の境で軒先の線が折れ曲がる「縋破風」(すがるはふ)の形になる。堂内には本尊釈迦三尊像(重文)を安置する。[2]
建築とともに、堂内の壁画も平安時代絵画の稀少な遺品として重要である。東側壁面に描かれた聖徳太子像は、中世から厨子で覆われ、秘仏扱いとされている(1977年に重要文化財に指定されたが、写真は公開されていない)[4]。来迎壁(本尊背後の壁)の表裏には九品来迎図と仏涅槃図が描かれているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真で全貌が確認された。
境内
本堂(国宝) - 応永4年(1397年)再建。概説は既出。
太子堂(国宝) - 天永3年(1112年)再建。解説は既出。
石造宝篋印塔(兵庫県指定有形文化財) - 南北朝時代造。
石風呂
鐘楼(重要文化財) - 応永14年(1407年)再建。
法華一石一字塔 - 石塔。明和8年(1771年)造。
観音堂 - 宝永2年(1705年)再建。
護摩堂(重要文化財) - 永禄6年(1563年)再建。
弁天社
宝物館 - 2012年(平成24年)に太子堂創建900年を記念して新しい宝物館が作られた。新西国三十三箇所第27番札所で通称を「あいたた観音」や「愛太子観音」とも呼ばれる銅造聖観音立像(重要文化財)を祀る。
東門
真光院 - 塔頭。
宝生院 - 塔頭。
浄心院 - 塔頭。
西門
常行堂(重要文化財) - 平安時代再建。
講堂
新薬師堂
三重塔(兵庫県指定有形文化財) - 室町時代再建。1976年(昭和51年)に放火で内部を焼損したが、1980年(昭和55年)に修理が完成している。
経蔵
行者堂(重要文化財) - 応永13年(1406年)築。
仁王門(兵庫県指定有形文化財) - 寛文12年(1672年)再建。
子安地蔵堂
観音堂
新薬師堂
講堂
西門
東門
石風呂
浄心院
宝生院
文化財
国宝
本堂 附:宮殿棟札 2枚
太子堂
重要文化財
建造物
常行堂[5]
鐘楼[6]
行者堂[7]
護摩堂[8]
常行堂
鐘楼
行者堂
護摩堂
絵画
阿弥陀三尊像(高麗)
絹本著色聖徳太子像 - 鎌倉時代。
絹本著色慈恵大師像 - 鎌倉時代。
絹本著色阿弥陀三尊像 - 高麗時代。
この高麗仏画は、2002年(平成14年)に宝物館から盗難に遭い、2004年(平成16年)に韓国大邱広域市内の寺院で発見されたが、盗品と知らずに寄進を受けたものであったため、返還は困難といわれている[9][10]。朝鮮王室儀軌の引き渡しに関連して、2011年(平成24年)4月に日本外務省は韓国外交通商部に対し、1994年(平成6年)に長崎県の壱岐島安国寺から盗まれた「高麗版大般若経」と、2002年(平成14年)に鶴林寺から盗まれた「阿弥陀三尊像」について、韓国内流入の事実確認や詳しい経緯の再調査を要請した[11]。
絹本著色聖徳太子絵伝 8幅 - 鎌倉時代。
2002年(平成14年)に韓国人犯行グループによって盗難に遭い、その翌年には取り戻されたが、損傷していたため、5年の歳月と5,000万円を掛けて修復が行われた[12]。
板絵著色聖徳太子像(太子堂壁画)(附:板絵著色仏涅槃図 1面、板絵著色九品来迎図 1面)1面
板絵著色聖徳太子像 - 平安時代。
附:板絵著色仏涅槃図 - 平安時代。
附:板絵著色九品来迎図 - 平安時代。
彫刻
聖観音立像
銅造聖観音立像 - 飛鳥時代後期(白鳳期)。
通称を「あいたた観音」「愛太子観音」という。1963年(昭和38年)に盗難に遭い、後に発見されたが、天衣(てんね)の一部が切断されるなどの損害があった。その後、原状どおりに修復されている。また、その昔、かつては前身を金で覆われていたために、この聖観音を見た盗賊はすっかりこれを金でできているものと思い、この聖観音を盗み出した。そしてこれを溶かしてしまおうとし、聖観音の腰を槌で思い切り叩いて潰そうとした。すると聖観音は「あいたた」と叫んだので盗賊は驚き、改心して聖観音を鶴林寺に返還したという。しかし、「あいたた観音」の名称は「愛太子観音」が変化したものだともいう。また、これまで海外の美術展に4回も貸し出されている。
木造釈迦三尊像 - 鎌倉時代(中尊)・平安時代(脇侍)。太子堂本尊。
木造十一面観音立像 - 平安時代。
木造天蓋 1個 - 平安時代。
木造薬師如来及び両脇侍像・木造二天王像(持国天、多聞天) - 平安時代。本堂本尊。
工芸
?太鼓縁 2基 附 鼓胴・革残欠 一括[13] - 室町時代。
木造鶴林寺扁額 - 室町時代。
銅鐘(梵鐘) - 高麗時代。
木造?漆厨子(きゅうしつずし、「きゅう」は「かみがしら」の下に「休」) - 鎌倉時代。
兵庫県指定有形文化財
建造物
三重塔 附:寛文12年棟札、元禄10年棟札、文化9年棟札
仁王門
石造宝篋印塔
彫刻
木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代。
木造僧形坐像(伝恵便法師像) - 平安中期。
木造聖徳太子立像[14] - 室町時代。
二臂如意輪観音半跏思惟像 - 平安後期。
行道面 12面 付・宝髪 2個 - 作風や法量の違いから12面は同時期に作られたものではなく、鎌倉時代から室町時代にかけて逐次制作されたと推測される。
木造獅子頭 2面 - 鎌倉後期頃。
工芸
懸仏(聖観音・如意輪観音) 2面 附:懸仏(如意輪観音)鏡板 1面 - 南北朝時代、如意輪観音台座下に康暦元年(1379年)銘。