庄内地方のデータ
面積2,405.28 km2
(全県比:25.8%)
(2020年10月1日)[1]
国勢調査263,404 人
(全県比:24.7%)
(2020年10月1日)[1]
推計人口248,368 人
(全県比:24.5%)
(2024年5月1日)
山形県 地域区分図
■橙:村山地方 / ■青:最上地方 / ■緑:置賜地方 / ■紫:庄内地方庄内地方の自治体
1. 酒田市 / 2. 鶴岡市(旧) / 3. 立川町(現庄内町) / 4. 余目町(現庄内町) / 5. 藤島町 / 6. 羽黒町 / 7. 櫛引町 / 8. 三川町 / 9. 朝日村 / 10. 温海町 / 11. 遊佐町 / 12. 八幡町 / 13. 松山町 / 14. 平田町
庄内地方(しょうないちほう)は、庄内平野を中心とした山形県の日本海沿岸地域である。鶴岡市と酒田市が二大都市として並立している。
概要北前船で栄えた湊町・酒田(山居倉庫)庄内藩の城下町として栄えた鶴岡(鶴ヶ岡城の堀)あつみ温泉
旧出羽国(明治維新により羽前国と羽後国)の沿岸南部に位置し、日本海と朝日山地に挟まれた沿岸平野地域である。江戸時代には庄内藩の領地となっていたが、この時代に灌漑技術が向上したことにより、日本有数の稲作地帯となっている。
庄内平野を取り囲む朝日山地、出羽三山が自然障壁となっている為、最上川の舟運による交流はあったが、山形県内陸部(1876年以前の山形県)とは異なる地域圏を形成していた。山形県内陸部の水産物流通量のほとんどが宮城県仙台市など太平洋側からの流通によって占められ、庄内産が約1割に留まっている[2]など、現在でも地域圏の違いが色濃く残る面がある。なお、1871年8月29日の廃藩置県当時は、鶴岡県(当初の名称は大泉県→酒田県)という独立した県であった。
古くから日本海沿岸の各地のほか、畿内との海運による交流があり、後者は当地域に繁栄をもたらしたほか、出羽三山への拠点の一つとなっていたことから参詣者が広域から集まっていた。陸路が発達した明治時代以後も、隣接する秋田県沿岸部や新潟県北部の下越地方との交流が深い地域であったが、現在では山形県外では宮城県や東京都との交流も深い(参照)。 「庄内」は「荘内」とも記される[3]。「庄」と「荘」は異体字の関係にあり、「庄」は「莊(荘)」に対する「俗字」とされる[4][注釈 1]。郷土史研究家の堀司朗
表記
近代以降、汎称地名としては「庄内」(庄内地方、庄内平野など)が一般的であり[3]、官公庁でも「庄内」が用いられているが(山形県庄内総合支庁など)[3]、企業・団体名では「荘内」を用いるもの(荘内銀行、荘内神社など)も少なからず見られる[3]。
地理はブランド米ともなっている。
また、年を通して風が強いため、風力発電装置が設置されており、風力電源開発において有望視しているケースもある。 古代には出羽柵や国府(城輪柵)が置かれ、畿内政権による出羽国支配の中心地域となった。 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、遊佐荘
平野:庄内平野
砂丘:庄内砂丘
川:最上川、赤川
山:鳥海山、出羽三山
庄内砂丘
赤川
歴史交通に関する歴史は「#交通史」を参照
古代・中世
「庄内(荘内)」という地域名称が生じるのは戦国時代後期である[8][3]。庄内という名称は「大泉荘の内」に由来すると説明される[3][12][注釈 3]。大泉荘を拠点としていた大宝寺義氏が、この地域一帯の所領化を進めた結果、もとの大泉荘の範囲を超えて地域一帯が「庄内」と呼ばれるようになったと見られる[8]。元亀・天正年間(1570年 - 1592年)には最上氏や越後上杉氏がこの地域への進出を図った[13]。天正11年(1583年)に大宝寺義氏が内紛により自害すると、最上・上杉両氏の抗争が激化した[8]。天正16年(1588年)、十五里ヶ原の戦いにおいて、上杉景勝方の本庄繁長(越後揚北衆)・大宝寺義勝(義氏の養子)が最上方を破り、庄内地方は上杉氏の勢力下に入った[8]。天正18年(1590年)には太閤検地に反発する地侍が藤島城に拠って蜂起したが、上杉氏に鎮圧された(藤島一揆)[8]。慶長3年(1598年)、上杉景勝は越後から会津に移封されるが、庄内地方は引き続き上杉領であった[8]。 関ヶ原の戦いの戦後処理により、庄内地方は最上義光(山形藩)の所領となった[8]。元和8年(1622年)、山形藩最上家はお家騒動(最上騒動)の末に改易となり、庄内地方には酒井忠勝が入封した[14]。酒井忠勝は「徳川四天王」の一人である酒井忠次の孫で、徳川譜代の重鎮・酒井左衛門尉家が庄内に配置されたのは、奥羽の外様大名の監視が目的とされる[14]。酒井忠勝は鶴ヶ岡城を本拠地と定め、簡素であった城を拡張し、城下町鶴岡を整備した[14]。また庄内藩は、一国一城令の下でも酒田を城下町とする亀ヶ崎城
近世
庄内藩のほかに庄内地方に置かれた藩としては、寛永9年(1632年)に庄内藩に預けられた加藤忠広(元熊本藩主)の出羽丸岡藩[14]、庄内藩の支藩として正保4年(1647年)に成立した大山藩と出羽松山藩がある[14]。出羽丸岡藩は承応2年(1653年)、大山藩は寛文8年(1668年)にそれぞれ無嗣断絶となったが[14]、出羽松山藩は幕末まで存続した。
酒田は、戦国末期にはすでに日本海有数の湊町であったが[10]、寛文12年(1672年)に河村瑞賢が西廻り航路(出羽国の幕府領の年貢米を、西国・上方を経由して江戸に輸送する海上輸送路[11])を開設すると、西国の廻船が急速に北国へと進出し、物資の集散が増加した[11](北前船参照)。享保年間に台頭した豪商本間氏は、問屋・海運に従事するとともに地主としての土地集積を進め[11]、本間光丘は庄内藩領内随一の地主となるとともに藩財政の再建にも関与した[11]。寛政11年(1799年)に幕府が蝦夷地を直轄化すると、酒田は蝦夷地経営とも深い関係を持つようになった[11]。 慶応年間、庄内藩は藩内抗争を経て佐幕で藩論を統一した。慶応4年/明治元年(1868年)4月、庄内藩は幕府から与えられた寒河江・柴橋領の奪回を図り(清川口の戦い参照)、天童藩を攻撃するなど(天童の戦い参照)、薩長主導の明治政府(その出先機関である奥羽鎮撫総督府)に敵対する姿勢を明確にした[14]。5月6日、庄内藩と会津藩を擁護するために結成された軍事同盟が奥羽越列藩同盟である。庄内藩は秋田方面に進攻するが(秋田戦争参照)、新政府軍の攻勢により会津藩の若松城が落城、米沢藩が降伏するに至って、9月23日に謝罪状を提出、同26日に新政府軍参謀黒田清隆が鶴岡に入城して藩主酒井忠篤の降伏を認めた[14]。翌27日に鶴岡城が接収された[14]。また、主要な港湾都市である酒田は新政府の管理下となり、酒田民政局
近代
明治元年(1868年)12月、庄内藩酒井家の家名存続と酒井忠宝(忠篤の弟)による家督相続、12万石の領有が認められた[14]。会津藩に比して寛大な処理と評され、これは西郷隆盛が指示したためとされる[14]。ただし庄内藩には会津若松への転封命令(のちに磐城平に変更)が出されており、転封阻止運動が繰り広げられた結果、明治2年(1869年)7月に至り70万両の献金を条件として従来通りの庄内領有を認められた[14]。同年9月に庄内藩は「大泉藩」に改名している[14]。また、明治2年(1869年)には出羽松山藩が同名回避のため「松嶺藩」に改名している[16]。