鶴岡一人
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鶴岡 一人南海ホークス選手兼任監督時代
(『アサヒグラフ』1948年4月21日号より)
基本情報
国籍 日本
出身地広島県呉市
生年月日 (1916-07-27) 1916年7月27日
没年月日 (2000-03-07) 2000年3月7日(83歳没)
身長
体重173 cm
68[1] kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手二塁手一塁手外野手
プロ入り1939年
初出場1939年3月28日
最終出場1952年8月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


広島県立広島商業学校


旧制法政大学

南海軍
グレートリング
南海ホークス
(1939, 1946 - 1952)

監督歴


グレートリング
南海ホークス (1946 - 1968)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1965年
選出方法競技者表彰
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鶴岡 一人(つるおか かずと〈かずんど〉、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身[2][3][4][5][6][※ 1]の元プロ野球選手内野手外野手)・監督野球解説者位階従五位1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」[7]

愛称は「鶴岡親分」[8][9]「ツルさん」。「ドン鶴岡」とも呼ばれ、初代ミスターホークスの異名を取った。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で[6][9][10][11][12]、日本プロ野球史を代表する指導者の一人[13]

一軍監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督[9][10][14][15]。また、勝率.609は通算500勝以上を挙げている歴代監督の中でも唯一の6割超えである[9][16]。リーグ優勝回数11回は川上哲治と並ぶプロ野球の監督史上最多記録である。
経歴
プロ入りまで

一年先輩である浜崎忠治浜崎真二の弟)と仲間になったことがきっかけで野球を始める。呉は工員の体力強化を目的に野球を奨励していた呉海軍工廠の影響で、戦前から野球が盛んだった[6][17][18]。鶴岡は五番町小学校で、同学年の藤村富美男は近くの二河小学校に通う当時からのライバル[6][16][19][20][※ 2]。鶴岡は広島県立広島商業高校へ進学し[21][22]1931年に遊撃手として第8回選抜中等学校野球大会で全国制覇を達成[10]、同年中には選抜優勝校の特典として、主催の大阪毎日新聞社からアメリカ遠征を与えられ、高校やノンプロチームと対戦した[23]カリフォルニア州サンタマリアで対戦したハイスクールには、戦後に親交を結ぶことになる日系2世のキャピー原田がおり、原田は「印象に残る、とてもうまいプレーヤーだった」と後に振り返っている[24][25][26][※ 3]1933年第10回選抜中等学校野球大会はエース兼4番打者としてベスト4まで進出した。

法政大学進学後は同大学野球部で、すぐにレギュラーを務め、華麗な三塁守備は「東京六大学史上最高」とも言われ[16]、法政大学の連覇に貢献するなど、花形選手・主将として活躍した[9][10][12][16][27]。新聞の「法政 鶴岡」という見出しの大きさは、この頃に始まった職業野球の球団名の活字の10倍はあったという[28]。リーグ通算88試合出場、331打数99安打、打率.299・2本塁打・56打点で、首位打者1回。個人一試合6安打という最多安打の六大学リーグ記録を持つ[9]
プロ入りと兵役

1939年に法政大学を卒業すると同時に、創立初年度の南海軍に入団した[27][28][29][※ 4]。当時の六大学野球の花形選手は、卒業後は企業チームに進んで1927年から始まっていた都市対抗野球を目指すのが既定路線[16]。産声を上げたばかりのプロ野球は「職業野球」として軽んじられ[13][16]、「海のものとも山のものとも分からない興行」という位置づけだった[16]。プロ野球選手は「男芸者」と蔑まされる存在[13]。法政大学野球部OB会は、「卒業と同時に職業野球に入るとは何事か。『野球芸人』になるつもりか。母校の恥だ。(鶴岡を)除名せよ」との声が出た[16][30]。鶴岡にプロ入りを決断させたのは、「(軍隊に)取られたら生きて帰れるかわからない。それ(徴兵)までは好きな野球をやりたい」という思いだった[29]。同様の理由で川上哲治もプロ入りしており、「徴兵=戦死」という暗い予想が無ければ、見下されていたプロ野球界には人材が集まらなかった可能性が高い。このように、プロ野球史は「戦争による抑圧」という陰惨な時代を迎えようとしていたが、皮肉な結果論として、戦争がプロ野球界へ貢献した側面もあった[29]

南海軍へ入団した鶴岡は、その卓越した統率力から新人にもかかわらず主将に抜擢され[10][9][31]、「3番・三塁手」として同年に本塁打王を獲得[10][9]。放った10本塁打は1938年の秋季リーグで記録した巨人中島治康とともに戦前の最多タイ記録である[※ 5]。鶴岡の守備方法「ノーステップ・スロー」は法政大学在籍時代に肩を痛めたため、極端な前進守備から素早く送球する方法を選んだためである[32]。鶴岡の人気は「職業野球選手中の随一」と言われ、当時は珍しかった女性の野球ファンも増やした。東京六大学のスター選手がプロ入りすることで、プロ野球界全体、選手個人の人気を共に広げていく、その先駆けが鶴岡である[28]

そんな鶴岡にも、1940年召集令状が届く。鶴岡は陸軍高射砲連隊へ入隊し、6年間もの長きに渡って従軍[10][9][33]、日本内地を転々とした後、1945年8月の終戦直前には神風特別攻撃隊の出撃地となった鹿児島県知覧町(現・南九州市)の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくるグラマンを撃ち落とした[16][33][34]。この時に中隊長として200名の部下を率いた経験が、後の「指揮官哲学」を生んだと言われている[16][35]1944年に結婚、同時に妻の家へ婿入りし、「山本 一人」へ改姓した[36]。南海の経営陣はたった1年の在籍だった鶴岡こそチームの未来を担う人材と見込み、その復員をひたすら待った[13]
選手兼任監督時代1949年、来日したサンフランシスコ・シールズ監督のフランク・オドールと握手をする鶴岡

1946年に復員し[16]、29歳で監督就任を要請され、同年30歳から1952年まで選手兼任監督を務める[14][16]終戦直後は球界に野球賭博が横行し[13]八百長の噂が絶えなかったが、鶴岡はチーム内の疑惑の選手を一掃し[13]、南海を巨人と覇権を争う強豪チームに育て上げる[13]。戦後の混乱期の中で、野球のみならず選手の生活の面倒まで世話していたことから「鶴岡親分」と呼ばれて慕われた[12][37][38][39][※ 6]


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