鶴丸城
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logo鹿児島城
鹿児島県
復元された御楼門
別名鶴丸城
城郭構造平山城
天守構造なし
築城主島津忠恒
築城年1602年慶長7年)
主な改修者島津吉貴
主な城主島津氏
廃城年1872年明治5年)
遺構石垣、堀、石橋
指定文化財国の史跡天然記念物
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度35分53.7秒 東経130度33分15.89秒 / 北緯31.598250度 東経130.5544139度 / 31.598250; 130.5544139座標: 北緯31度35分53.7秒 東経130度33分15.89秒 / 北緯31.598250度 東経130.5544139度 / 31.598250; 130.5544139
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1873年以前に撮影された御楼門鹿児島城の航空写真
(1974年撮影・国土航空写真)石垣と水堀

鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山町薩摩国鹿児島郡城山[1])にあった江戸時代日本の城。別名鶴丸城(つるまるじょう)。鹿児島では一般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。

1601年慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている[2][3]
概要

江戸時代初期に島津忠恒によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された平山城である。平城山城とする説もある。

城山は、南北朝時代には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡された。その後島津忠恒は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては天守など高層建築や高石垣などは築かれず、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎は著書『薩摩見聞記』で「不思議」と評している。これには江戸幕府に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされる。

本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として島津歳久の孫の常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。

1873年明治6年)には「御楼門」という大手口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、角櫓(隅櫓)、書院造の御殿などがあった。御楼門と兵具所多門櫓、角櫓の様子については明治初期に撮影された写真が現存する。
歴史・沿革

1601年慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。四神相応の地(東にd木川、西に出水筋、南に錦江湾、北に城山)として選定された。前年の関ヶ原の戦い薩摩国島津氏は西軍側に属して敗北し、責を負って引退した島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。

忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、幕末薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃している。

鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でシロアリ被害が多く、幾度も倒壊、焼失したが、そのたびに建て替えが行われた。しかし、1874年明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。

1871年(明治4年)の廃藩置県の後、鹿児島城には鎮西鎮台第二分営が置かれたが、1873年(明治6年)の火災によって本丸が焼失、このとき御楼門も焼失した[4]1877年(明治10年)の西南戦争では二の丸が焼失した[4]。出丸には私学校が設立されたが、西南戦争後の1882年に県立鹿児島医学校とその附属病院が置かれた。鹿児島医学校が廃止された後も病院は所属を変えながら同じ場所に存続し、戦後は鹿児島大学の附属病院だったが、1974年に医学部ととともに宇宿(今の桜ヶ丘)に移転[5]、現在は国立病院機構鹿児島医療センターになっている。

1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用された。空襲によって焼失したがその後も同じ場所に存続し、学制改革によって鹿児島大学文理学部になったが、同学部は郡元キャンパスに移転、1957年以降は国立鹿児島大学医学部基礎教室などが置かれた。

1971年(昭和46年)に、南日本新聞で「鹿児島城物語」を連載。


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