鶴ヶ岡城
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鶴ヶ岡城
山形県
鶴ヶ岡城の堀
別名大宝寺城、大梵寺城
城郭構造輪郭式平城
天守構造なし
築城主大泉氏(武藤氏)
築城年鎌倉時代初期
主な改修者直江兼続、最上義光、酒井忠勝
主な城主武藤氏、上杉氏、最上氏、酒井氏
廃城年1871年
遺構土塁、石垣、堀
藩校、庭園
指定文化財国の史跡(藩校)、国の名勝(三の丸庭園)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度43分43.46秒 東経139度49分28.39秒 / 北緯38.7287389度 東経139.8245528度 / 38.7287389; 139.8245528
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}鶴ヶ岡城山形県の地図を表示鶴ヶ岡城出羽国の地図を表示
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鶴ヶ岡城の航空写真
(1976年撮影・国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった日本の城平城)である。目次

1 概要

2 歴史・沿革

2.1 大宝寺城

2.2 鶴ヶ岡城


3 参考文献

4 関連項目

5 外部リンク

概要

城は鶴岡市街地のほぼ中心に位置する。江戸時代庄内藩の藩庁であった。他の東北地方の城と同様に土塁を多用し、石垣は主要な部分にしか用いられていなかった。また、天守は構えられなかったが、本丸東北隅に2層2階の隅櫓と二の丸南西隅にも2層2階の隅櫓が建てられていた。

現在、本丸・二の丸跡周辺は鶴岡公園となっており、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。鶴岡公園には荘内神社、稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)、藤沢周平記念館がある。三の丸跡には致道博物館があって酒井家伝来の美術品などが展示されており、酒井家御用屋敷跡庭園が整備され国の名勝に指定されている。鶴岡公園南東には藩校致道館」が残っており、東北地方に唯一現存する藩校として国の史跡に指定されている。

周辺には市役所、鶴岡市文化会館山形県立鶴岡南高等学校山形県立鶴岡工業高等学校、鶴岡タウンキャンパス(慶應義塾大学先端生命科学研究所、致道ライブラリー、東北公益文科大学大学院)、鶴岡アートフォーラム(芸術展示施設)などが立地する。
歴史・沿革
大宝寺城

鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。室町時代初期になると武藤長盛なる武将が出てこの地に権勢を振るった。

戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、その地位は不安定であった。天文元年(1532年)には砂越氏維によって大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移した。そして大宝寺城はその支城の一つとなった。その後、越後上杉氏と手を組み、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の前森蔵人(東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)あっけなく併呑された。

上杉氏もまた、尾浦城を庄内地方の本拠とし大宝寺城は支城とされた。天正18年(1590年)検地を行った際、これに抵抗した地侍を中心に一揆が起きた。この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城した。一揆の鎮圧にあたった直江兼続は大宝寺城の修復を行い越後兵を常駐させた。
鶴ヶ岡城

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉氏は西軍に加担した罪により会津120万石から米沢30万石に減封され、代わって庄内地方を支配したのは山形城を本城とする最上義光である。義光は24万石から57万石を領有する大大名となった。


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