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この項目では、妖怪について説明しています。その他の用法については「鵺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
「京都 鵺 大尾」(「木曽街道六十九次」の内、歌川国芳画、嘉永5年(1852年)10月)

鵺、?、恠鳥、夜鳥、奴延鳥(ぬえ)は、日本伝承される妖怪である[1]
外見鳥山石燕今昔画図続百鬼』より「鵼」

平家物語』などに登場し、の顔、の胴体、の手足を持ち、尾は。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足が狸、尾はになっている。さらに、室町時代には頭がで胴はのものが出現したと書かれた資料もある[2]

描写される姿形は、北東の(虎)、南東の(蛇)、南西の(猿)、北西のイノシシ)といった干支を表す獣の合成という考えもある[注 1]
行動

「ヒョーヒョー」という、鳥のトラツグミの声に似た大変に気味の悪い声で鳴いた、とされる。映画悪霊島』(原作 横溝正史)のキャッチフレーズ、「鵺の鳴く夜は恐ろしい」とはこのことである。

一説には雷獣である。

平安時代後期に出現したとされるが、平安時代のいつ頃かは、二条天皇の時代、近衛天皇の時代、後白河天皇の時代、鳥羽天皇の時代など、資料によって諸説ある[3]
名称伝説に基づき再現された鵺の像(兵庫県西脇市・長明寺)

元来、鵺(や)はキジに似た鳥[4]とされるが正確な同定は不明である。「夜」は形声の音符であり、意味を伴わない。諏訪春雄は中国の博物誌『山海経』「北山経」に収録されている白鵺(はくや)という想像上の鳥と、別の想像上の怪鳥である?(こう・くう)[4]を日本では同一視して共に「ぬえ」と読み、意味的にも混同したと述べている[5]

日本では、夜に鳴く鳥とされ、『古事記』『万葉集』に名が見られる[3]。この鳴き声の主は、大で黄赤色の鳥[4]と考えられたが、現在では、トラツグミとするのが定説である[3]。この鳥の寂しげな鳴き声は平安時代頃の人々には不吉なものに聞こえたことから凶鳥とされ、天皇や貴族たちは鳴き声が聞こえるや、大事が起きないよう祈祷したという[3]

『平家物語』にある怪物はあくまで「鵺の声で鳴く得体の知れないもの」で名前はついていなかった。しかし現在ではこの怪物の名前が鵺だと思われ、そちらの方が有名である。
鵺退治

平家物語』や摂津国の地誌『摂津名所図会』などによると、鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。新形三十六怪撰:猪早太と鵺 月岡芳年

側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある[6])を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓「雷上動(らいしょうどう)」を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した[7][8]。その時宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという[7]。これにより天皇の体調もたちまちにして回復し[9]、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した。

退治された鵺のその後については諸説ある。『平家物語』などによれば、京の都の人々は鵺の祟りを恐れて、死体を船に乗せて鴨川に流した。淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川住吉川の間の浜に打ち上げられた。芦屋の人々はこの屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという[7]。鵺を葬ったとされる鵺塚は、『摂津名所図会』では「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり」とある[7]

また江戸時代初期の地誌『芦分船』によれば、鵺は淀川下流に流れ着き、祟りを恐れた村人たちが母恩寺の住職に告げ、ねんごろに弔って土に埋めて塚を建てたものの[3][10]明治時代に入って塚が取り壊されかけ、鵺の怨霊が近くに住む人々を悩ませ、慌てて塚が修復されたという[8]。一方で『源平盛衰記』『閑田次筆』によれば、鵺は京都府の清水寺に埋められたといい、江戸時代にはそれを掘り起こしたために祟りがあったという[3]源頼政の鵺退治を再現した像(長明寺(兵庫県西脇市))

別説では鵺の死霊は1頭の馬と化し、木下と名づけられて頼政に飼われたという。この馬は良馬であったために平宗盛に取り上げられ、それをきっかけに頼政は反平家のために挙兵してその身を滅ぼすことになり、鵺は宿縁を晴らしたのだという[3]

また静岡県浜名湖西方に鵺の死体が落ちてきたともいい、浜松市北区の三ヶ日町鵺代、胴崎、羽平、尾奈といった地名はそれぞれ鵺の頭部、胴体、羽、尾が落ちてきたという伝説に由来する[11]

愛媛県上浮穴郡久万高原町には、鵺の正体は頼政の母だという伝説もある。かつて平家全盛の時代、頼政の母が故郷のこの地に隠れ住んでおり、山間部の赤蔵ヶ池という池で、息子の武運と源氏再興をこの池の主の龍神に祈ったところ、祈祷と平家への憎悪により母の体が鵺と化し、京都へ飛んで行った。母の化身した鵺は天皇を病気にさせた上、自身を息子・頼政に退治させることで手柄を上げさせたのである。頼政の矢に貫かれた鵺は赤蔵ヶ池に舞い戻って池の主となったものの、矢傷がもとで命を落としたという[12]
文献における鵺

14世紀半前半に兼好法師によって書かれた徒然草の第二百十段は次のとおりである。

喚子鳥は春のものなりとばかり言ひて、如何なる鳥ともさだかに記せる物なし。或る真言書の中に喚子鳥(よぶこどり)鳴く時招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺なり。万葉集の長歌に「霞立つ長き春日の」など続けたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通ひて聞ゆ。

これは「ある真言書」に出てくる喚子鳥が鵺のことであるとその区別を指摘したうえで、鵺=喚子鳥と同一視される理由をその「ことざま」が類似しているためであろうという考察を加えている[13]

守覚法親王によって東密小野流に伝えられた諸尊法を集成した13世紀半ばに書かれた秘鈔の巻九に「延命招魂作法」の項目があり、「毎初夜之時行之。後夜日中不然。」という記述が見られる[14]
史跡
鵺塚(
阪神芦屋駅近く、松浜公園の一画)
『平家物語』で川に流された鵺を葬ったとされる塚[7]。付近に掛かっている鵺塚橋の名はこの鵺塚に由来する[9]


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