鵜飼い
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、漁法としての「鵜飼い」について説明しています。鵜飼いを題材とした能については「鵜飼 (能)」をご覧ください。
岐阜県岐阜市長良川鵜飼。鵜匠が船に乗り、数羽から十数羽の鵜を操っている。山梨県笛吹市で行われている石和鵜飼。「徒歩鵜」と呼ばれる漁法で鵜匠が直接川に入って鵜を操っている。

鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい[注 1])は、飼いならした(ウ)を使ってアユなどを獲る伝統的な漁法。中国や日本などにみられる漁法である。また、日本では平安時代から貴族や武士などが鵜飼見物を行ってきた歴史があり、現代でも各地で観光としての鵜飼が行われている[2]。特に岐阜県岐阜市長良川鵜飼が有名である。

一方、ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間、スポーツとして行われた。
日本
歴史河渡 長柄川鵜飼 (木曽街道六十九次) 渓斎英泉
岐阜県博物館所蔵長良橋下の川辺で待機する鵜飼観覧舟、手前は御手洗舟
(岐阜県岐阜市)

鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔之子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある[3]。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂??項、令入水捕魚、日得百餘頭』(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と記されている。

5世紀末から6世紀前半に築造されたとされる群馬県保渡田八幡塚古墳では、頸に紐を巻きつけ嘴には魚をくわえた形状で鵜飼の様子を表現した「鵜形埴輪」が出土している。

日本では鵜飼は主要な鮎漁の形態である一方、平安時代には貴族武士などの間で遊興として鵜飼見物が行われるようになった[2]

延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁により鮎が献上された。そして、それを時の天皇が気に入り、方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料として賜り、鵜飼七郷と読んだ[4]

平治の乱源頼朝が義朝と東国へと敗走する時、義朝とはぐれて長良川河畔をさまよい、鵜飼の長である白明の家に宿り、そこで食した鮎鮨の美味に飢えを癒した。建久3年(1192年)右大将として東国より上洛する際、白明の子を呼び出して恩に報い、また毎年鮎鮨を鎌倉に送るよう命じた[4]

和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録がある。

永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を当て、給与した。

元和元年(1615年)徳川家康が鵜飼を見物し、石焼きの鮎に感賞して以来、江戸城に毎年鮎を献上するのが例となり[4]、鵜匠21戸ごとに10両の扶持を給せられた。その献上の際には老中の三判証文を持って継ぎ立て、江戸まで2昼夜で送致した。その後、鵜飼は衰え、文化2年(1805年)には12戸となり、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するとして、再び回復した。

明治維新で一時衰退したが、明治天皇の代にしばしば沙汰があり、大膳職に上納され、明治23年(1890年)から稲葉郡長良村古津その他武儀郡、郡上郡の各村で延長1471間を宮内省の鮎漁の御猟場に編入された[4]

切手の意匠にもなった。

昭和28年(1953年)9月15日発売 100円普通切手

昭和34年(1959年)9月25日発売 10円 耶馬日田英彦山国定公園 三隈川の鵜飼

漁法長良橋南詰にある「鵜匠の像」
岐阜県岐阜市

鵜飼漁をする人を鵜使いまたは鵜匠(うしょう・うじょう)と呼ぶ。その装束は風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。

漁に用いるウの数は各地の鵜飼漁の規模や漁法によって異なる。例えば、徒歩鵜では鵜匠ごとに1羽ないし極数羽のウを操るが、小船を用いた一般的な鵜飼においては、1人の鵜匠が5羽から10羽程度のウを一度に操る、北斎の鵜飼図など昔の絵を見ると江戸時代は2羽から5羽程度のようである。期はおおむね晩春から初秋にかけてであり、鮎漁の解禁日にあわせて漁が始まることが多い。

鵜飼いでは、平底の小船の舳先で焚かれるかがり火が、照明のほかにアユを驚かせる役割を担っている。かがり火の光に驚き、動きが活発になったアユは、鱗がかがり火の光に反射することでウに捕えられる。ウののどには紐が巻かれており、ある大きさ以上のアユは完全に飲み込むことができなくなっており、鵜匠はそれを吐き出させて漁獲とする。紐の巻き加減によって漁獲するアユの大きさを決め、それより小さいアユはウの胃に入る。

しかし、鵜飼いの鵜にいつものどに紐をまいて漁をしていると鵜はだんだんやる気をなくしていってしまう。そのため、鵜匠は鵜にも休暇を与えることがある。(鵜飼と鵜の関係については、でも記述)

鵜飼は通常5月半ばから10月半ばまでの満月の日以外に行われる。満月の日に行われないのは、かがり火に集まってくるアユが月明かりに惑わされるのを防ぐためである。日立市にあるウミウ捕獲場・鳥屋(とや)ウミウを捕獲するのに使うかぎ棒と捕らえたウミウを入れる籠

鵜飼いに使われるウはウミウであり、和歌山県有田市島根県益田市を除く全国11か所すべての鵜飼は、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用している。ウミウの捕獲は、春と秋の年2回、鳥屋(とや)と呼ばれる海岸壁に設置されたコモ掛けの小屋で行われる。鳥屋の周りに放した囮のウミウにつられて近寄ってきたところを、鳥屋の中からかぎ棒と呼ばれる篠竹の先にかぎ針を付けた道具を出し、ウミウの足首を引っかけて鳥屋に引きずり込み捕らえる[5][6]
かつておこなわれた漁法

鵜は冬、南方に渡りする途中を尾張国知多半島篠島海岸で捕獲した。捕獲法は、最初おとりとなる1羽の鵜の両眼の瞼を縫って仮に盲目とする。これを海上に露出する巌頭に置き、付近に黐ハゴを装置し、これに近づく渡りの鵜を捕まえるのである。これは島鵜とよんで、普通の鵜よりもやや大きく、身長約2尺、頸長8寸から9寸、体重650匁から860匁になる。捕まえた鵜も瞼を仮縫いして使用地まではこび、風切羽5,6枚を半ばから切り取り、縄付きで泳がせ、だんだん訓練する。使用年限はたいてい12年から13年間である。

鵜飼舟は長さ7間8寸、敷6間、幅中央3尺4寸、深さ1尺6寸5分。棹は艫乗りの使うものは長さ1丈5尺(艫棹)、中乗の使うものは長さ8尺5寸(中棹)。楫は艫楫の長さ7尺5寸、中楫の長さ6尺2寸。帆は長さ1丈2尺5寸、幅9尺5寸。檣は長さ1丈6尺5寸。ただし帆と檣は上流へさかのぼるときに用いるだけで、鵜飼と直接の関係はない。

松敷は篝用の薪を置く台であり、大小2個ある。手縄は鵜をむすぶ縄で、檜の繊維を撚りあわせたもので、長さ1丈。縄の端に鯨でつくった「ツモソ」という長さ1尺2寸の紐を付け、その末を島田にまげて鵜をつなぐ。

吐籠は鵜の呑んだ鮎を吐出させる竹籠で、口径1尺3寸、深さ1尺2寸5分。諸蓋は鮎を盛る器で、横7寸2分、縦1尺2寸、深さ1寸5分の檜製の盆。篝は鉄製で、火籠の深さ1尺、底径6寸、口径1尺4寸、これに長さ7尺5寸の柄をそえて、舟の舳に差し出す。松割り木は篝火用で、長さ1尺2寸ほどの松薪6貫匁を1束として、1艘に5束ずつそなえる。松明は脂松を適宜たばねて、随時使用する。鵜籠は鵜の運搬具で、幅3分の割竹で、縦1筋、横2筋、方1寸くらいの籠目に編みつくり、檜の4分板で蓋とする。籠中央に縦に仕切りをもうけ、一方に2羽ずつ4羽の鵜をいれる。留籠は使用後の鵜を1籠に2羽ずついれて鳥部屋に置くもので、製法は、鵜籠と同様である。

鮎は立春後およそ50日を経れば、やや成長し海口から河川の淡水にのぼりはじめ、5月になれば3寸くらいに成長する。鵜飼各戸はこれより前に準備するが、鵜飼は暗夜にかぎる漁法であるから、月夜を嫌い、上弦の夜は月入後、下弦の夜は月出前、上流から下流へ漁して下る。鵜飼舟は毎夜12艘が二手に分かれて漁するが、ときに連合し漁陣を張り、一斉漁業することもある(搦み)。鵜飼舟1隻には鵜匠1人、中乗1人、艫乗2人、計4人が乗り組み、鵜匠は舳で12羽、中乗は中央で4羽の鵜を遣い、艫乗は艫で舟の進退旋回の任にあたる。

鵜匠は鵜の鮎を呑んだ瞬間手応えでそれと察知し、ただちに引き上げ、吐籠に吐かす。豊漁の際には全部の鵜が一時に鮎を呑むこともあるが、鵜匠はいささかの遅滞もなく、それを取りさばく。鵜匠はその多忙のうちにあってなおあるいは篝の薪を添え、あるいは舟の進退に注意し、ひと呼吸の油断もない。
徒歩鵜

山梨県笛吹市石和町を流れる笛吹川における石和鵜飼や、山梨県の郡内地方を流れる桂川でかつて行われていた鵜飼(現在は廃絶)、和歌山県有田市の有田川で行われている鵜飼は、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれるものである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef