鴻臚館
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現在、伊丹市にある文化施設については「鴻臚館 (伊丹市)」をご覧ください。
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鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。

その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きなの意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。
筑紫の鴻臚館

鴻臚館跡展示館


施設情報
正式名称鴻臚館跡展示館
専門分野歴史(奈良時代~平安時代
考古学
事業主体福岡市教育委員会
管理運営福岡市教育委員会
開館1995年
所在地810-0043
福岡県福岡市中央区城内1
プロジェクト:GLAM
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鴻臚館の遺構鴻臚館跡の全景

筑紫の鴻臚館は現在の福岡県福岡市中央区城内にあった。福岡城敷地内に位置する。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。

筑紫(現在の福岡県西部)の外交施設の原型は魏志倭人伝の時代に遡るとされる。糸島半島にあったとされる伊都国には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし施設名や場所についての記録は残っていない。
筑紫館

磐井の乱527年 - 528年)の後、宣化元年(536年)に那津のほとりに通称「那津官家(なのつのみやけ)」を設置し、九州支配と外交の役目を果たす。推古17年(609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。白村江の戦いの翌年(664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海外交流および国防の拠点施設が残された。

この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府の間は約16キロメートルだが、そこを最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が敷設されていた。ただしこの道路は8世紀内に廃道となる。持統2年(688年)には筑紫館で新羅国使全霜林を饗したと『日本書紀』に記されている。また海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられた。天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されている。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館はまた外国商人らの検問・接待・交易などに用いられた。
大宰鴻臚館

鴻臚の名は入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述に初めて登場する。承和5年(838年)には第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとあり、承和9年(842年)の太政官符にも鴻臚館の名が記載されており、嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。

天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。この傾向は菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止されたのちに強まった。

当初鴻臚館での通商は官営であった。


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