鴻池善右衛門
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鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)は、江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂両替商鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前である。

家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とする。初め酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。

明治維新後は男爵に叙せられて華族に列した。大阪市の本邸跡は現在 ⇒大阪美術倶楽部となっている。
初代 正成

初代 鴻池 善右衛門(慶長13年(1608年) - 元禄6年1月26日1693年3月2日))は、江戸時代初期の当主。名は正成。

鴻池新六直文(幸元)の八男。1619年に摂津国大坂へ移り、1633年に分家を立てる。屋敷のある今橋から「今橋鴻池」とも呼ばれる。

1625年には大坂と江戸の間の海運業をはじめ、諸大名の参勤交代や蔵物の輸送業務を手がけた。1656年には酒造を廃業して両替商をはじめる。大名貸、町人貸、問屋融通など事業を拡大した。

1661年、顕孝庵(現・大阪市中央区中寺2丁目)を再興して菩提寺とした。
2代 之宗

2代目 鴻池 善右衛門(寛永20年(1643年) - 元禄9年5月2日1696年6月1日))は、江戸時代前期の当主。名は之宗。喜右衛門を称した。先代の二男。寛文3年(1663年)鴻池家2代当主となり、両替業を拡充し、岡山藩広島藩などの掛屋(換金屋)、蔵元となる[1]。元禄期には32藩と取引するに至った[2]。3代以降の当主は代々善右衛門を名のったが、2代は喜右衛門でとおした[1]
3代 宗利

3代目 鴻池 善右衛門(寛文7年(1667年) - 元文元年7月12日1736年8月18日))。名は宗利。元禄8年(1695年)に家督を継承。父祖の手掛けた大名貸事業を拡大し、鴻池家の最盛期を築いた。宝永元年(1704年)の大和川の付け替え工事の際に生じた土地の新田開発に着手、のちに鴻池新田となった。また市街地整備も手がけて地代を得た。

大正8年(1919年)、従五位を追贈された[3]
4代 宗貞

4代目 鴻池 善右衛門(元禄11年(1690年) - 延享2年10月23日1745年11月16日))は、江戸時代前期の当主。名は宗貞(むねさだ)、号は宗羽、練磨斎、了瑛。

3代善右衛門宗利の長男。宝永2年(1705年)に16歳で家督を継承。享保8年(1723年)に長男宗益に家督を譲った。

表千家7代天然宗左(如心斎)に師事した茶人であり、茶器の収集家として知られた。鴻池宗羽・鴻池了瑛の名でも知られる。寛保2年(1742年)には京都大徳寺玉林院に、祖先山中幸盛の位牌堂として南明庵を建立、これに付属して茶室「蓑庵」を造立した。
5代 宗益

5代目 鴻池 善右衛門(享保2年(1717年) - 宝暦14年3月26日1764年4月26日))は、江戸時代中期の当主。名は宗益。号は洗耳斎。

4代善右衛門宗貞の長男。享保8年(1723年)、7歳で家督を嗣ぎ、5代目善右衛門となる。

父宗貞とともに表千家7代天然宗左(如心斎)に師事し、茶人として知られる。
9代 幸実

9代目 鴻池 善右衛門(文化3年(1806年) - 嘉永4年6月20日1851年7月18日))は、江戸時代後期の当主。名は幸実。号は炉雪(爐雪)。

8代善右衛門幸澄の子。表千家10代瑞翁宗左(碌々斎)に師事し、茶人としても知られる。天保の大飢饉で貧民に義援金を施したが、大塩平八郎の乱では焼討対象とされ、大損害を受けた。
10代 幸富詳細は「鴻池幸富」を参照

10代目 鴻池 善右衛門(天保12年(1841年) - 大正9年(1920年))は、江戸時代後期から明治大正まで活躍した当主。名は幸富(ゆきとみ)。嘉永4年(1851年)に家督を継承。明治維新後、第十三国立銀行(現、三菱UFJ銀行)を創設するなど、近代日本の金融・貿易の発展に尽力した。
11代 幸方鴻池幸方

11代目 鴻池 善右衛門(慶応元年5月25日1865年6月18日) - 昭和6年(1931年3月18日)は、明治大正昭和初期の当主。


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