鴨川_(淀川水系)
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淀川水系の琵琶湖に流入する滋賀県の河川については「鴨川 (滋賀県)」をご覧ください。

鴨川
鴨川(四条大橋から上流を望む)
水系一級水系 淀川
種別一級河川
延長31 km
平均流量-- m³/s
流域面積210 km²
水源桟敷ヶ岳(京都市北区
魚谷山(京都市北区)
水源の標高896 m
河口・合流先桂川(京都市伏見区
流域京都府京都市
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鴨川(かもがわ)は、京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川
地理

河川法(昭和39年法律第167号)における一級河川鴨川の起点は、京都市北区雲ケ畑の出合橋付近である。

北区雲ケ畑の桟敷ヶ岳東部の谷をとする祖父谷川と、桟敷ヶ岳南部の薬師峠を源とする雲ケ畑岩屋川が雲ケ畑岩屋橋で合流して雲ケ畑川となる。雲ケ畑に建つ金光峯寺志明院(岩屋不動)境内に在る洞窟(神降窟)からの湧水が鴨川の始まり、最初の一滴とされて祀られている[1]

雲ケ畑川は、雲ケ畑の魚谷山南部の谷を源とする中津川と出合橋で合流し、これより「一級河川鴨川」となる(一級河川鴨川の起点標識は、以前は中津川側にあったが、現在は中津川との合流点に設置・修正されている)。

また、この鴨川本流とは別に、京都市右京区芹生峠を源とする一級河川貴船川と、京都市左京区花脊峠を源とする一級河川鞍馬川がある。両者は貴船口で合流し一級河川鞍馬川となり、山幸橋付近で鴨川と合流し大きな流れとなる。なお、貴船神社社伝においては玉依姫命淀川・鴨川の源流を遡上した際にたどりついたのが貴船の地とされる。

鴨川は一級河川鞍馬川と合流後、北区上賀茂京都盆地に出る。上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)脇を南南東に流れ、賀茂大橋(加茂大橋)手前で一級河川高野川と合流する。そこから京都市内を真南に流れ、四条大橋上流で一級河川白川と合流したのち南西へ流れ、五条大橋から再度南下、九条高架橋を越えた後に南西へと流れを変え伏見区下鳥羽で一級河川西高瀬川と合流、そのまま桂川に注ぐ。また、中京区で西に高瀬川を分け、以南で並行して九条付近で再度合流する。
表記

1964年昭和39年)公布、翌年施行の河川法により、起点よりすべて鴨川の表記に統一されているが、慣例として、高野川との合流点より上流は賀茂川または加茂川と、下流を鴨川と表記する。「日本紀略」では「鴨川」「賀茂川」どちらの表記も混在しているが、平安時代には流域により表記を区別していたわけではない。

平安京の東部を流れることから、古くは東河あるいは朱雀川とも呼ばれた。また左岸四条下流側にある花街「宮川町」の名の由来は鴨川を宮川と呼んだためとする。
歴史

古代の鴨川上流域は賀茂県主氏の本拠地であった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀る。

平安京においては都の東限となる。なお、鴨川が平安京の東限とされた理由として、作庭記を根拠に、風水四神相応、つまり四神の玄武(山)・青龍(川)・白虎(道)・朱雀(沢)の東の神「青龍」に擬したためだとする説がある。しかし、そうしたことは史書では確認できず、作庭記も平安京の地勢については言及していないことから、四神相応の思想が造都工事に影響を与えたという史学的根拠はなく、後世における推論が通説化したものと考えられる。中世には四条から五条の河原が歓楽地となり、多くの芸人が集まるようになった。その中の一人に出雲阿国がいる。現在も四条大橋東側に年末恒例の顔見世で有名な南座が建っているが、これは四条河原が芸能の地であった名残であり、また祇園町先斗町宮川町などの有数の花街が拡がるのもその名残である。

1614年(慶長19年)には角倉了以素庵父子によって高瀬川が開鑿され、京都と大坂を結ぶ水路として利用された。1890年(明治23年)には琵琶湖疏水によって琵琶湖とも結ばれた。しかし20世紀に入ると、鉄道の開通によりこれらの水運は衰退した。
フランス橋をめぐる景観論争

京都市1980年代以降、三条大橋と四条大橋の中間に歩行者専用の新たな橋を架けることを計画している。この計画に対しては、予定地の東側では街の活性化につながると賛成する意見がある一方で、西側の先斗町では地域が橋への通り道になると街の風情が損なわれるとして反対する意見が多数を占めていた。

1996年、京都を訪問したフランスシラク大統領(元パリ市長)は桝本頼兼市長との会談で、セーヌ川ポンデザール(芸術橋)を模した橋を鴨川に架けることを提案した。これは、2年後の1998年が「日本におけるフランス年」にあたることと、京都市とパリ市の友情盟約締結40周年にあたることから、その記念事業としての構想であったが、この計画が公表されると「新たな名所になる」と歓迎する意見がある一方で、「フランス風のデザイン」が景観を損ねるとの批判も起こり、世論を二分した。1997年に行なわれた都市計画案の公告・縦覧では計画に賛成する意見書が反対を上回ったものの、これに対しても計画に反対する市民団体から「意見書の内容を充分に検討することなく数のみを比較している」と、計画決定の拙速さが批判の対象となった。またフランスのル・モンド紙が計画を批判する記事を掲載するなど、京都市外をも巻き込んだ論争となり、結局、1998年に市は芸術橋計画を白紙撤回した。[2]
条例による規制

京都府鴨川条例2008年4月1日施行)により、場所によって自転車の放置・打ち上げ花火や爆竹・バーベキューなどが禁止されている。
治水

古来鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた。これは大都市を流れる河川としては勾配が急であることに加え、平安京造営時に北山の木が伐採されたこと、市街地の東への拡大にともない河原が市街地化したことなどが原因である。

824年天長元年)には治水を担当する防鴨河使(ぼうかし)という官職が設けられたが、洪水はやまなかった。平安末期に権勢をふるった白河法皇は、自らの意に沿わないもの(天下三大不如意)の筆頭に「賀茂の水」を挙げている。豊臣秀吉の築いた御土居の東部は鴨川に沿っており、堤防としての役割を兼ねていた。また1670年寛文10年)には今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられ、御土居との間が新たな市街地として開発された。
昭和の鴨川水害詳細は「京都大水害」を参照

1935年昭和10年)6月29日未明に発生した鴨川水害では死者12名・負傷者71名・家屋の全半壊482戸、37.2平方kmが浸水。このほか鴨川にかかる26橋のうち五条大橋など15橋が流失した。また、同日午前中に上流の橋が相次いで流失する過程で、橋の部材が三条大橋や当時コンクリートアーチ橋の四条大橋に引っかかり川の流れをせき止め、先斗町や三条以南の木屋町筋が濁流に浸かるなど[3]市内の浸水に拍車がかかった。鴨川と平行して走る京阪本線に路盤流失・駅舎やホーム・琵琶湖疏水の団栗閘門を破損させ東山区側の宮川町も浸水、さらに朝には団栗橋・松原橋・五条大橋を倒壊させて正面橋をせき止めてさらに大きな被害を出した。


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