鴨川つばめ
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鴨川 つばめ
本名非公表
生誕
1957年
福岡県大牟田市
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1975年 -
ジャンルギャグ漫画
代表作『マカロニほうれん荘
ドラネコロック
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鴨川 つばめ(かもがわ(かもかわ) つばめ、1957年 - )は、日本漫画家福岡県大牟田市出身。男性。別ペンネームに東京ひよこがある。菜食主義者
略歴

中学時代に読んだ酒井七馬の『漫画家入門』に衝撃を受け、高校中退後に漫画家バロン吉元のもとでアシスタントを務める。

1975年週刊少年ジャンプ』(集英社)において、ヤングジャンプ賞受賞作品『ドラゴン危機一髪』でデビュー。その後数本の読み切り作品を執筆後、『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)に移り『プルプルぷろぺら』を連載開始。

1977年、『プルプルぷろぺら』に変わって『ドラネコロック』を、また『週刊少年チャンピオン』に『マカロニほうれん荘』を連載開始。鴨川によれば編集長の壁村耐三が他の編集部員全員の反対を押し切り、独断で『マカロニほうれん荘』を連載させたという。この連載で鴨川は一躍人気漫画家となり、同時期に同誌で『がきデカ』を連載していた山上たつひことともに、この時期の日本ギャグ漫画界の頂点を極めるほどの活躍を見せる。なお、山上によれば当時から鴨川の存在を強く意識していたとのことで「当時私はギャグ界の王者でした。無敵のチャンピオンだった。しかし、鴨川つばめの絵を見た瞬間自信がぐらついた。私に勝ち目がないのはわかっていました。圧倒的な絵の技量、疾走感、画面からロックのリズムがほとばしり出るような鴨川つばめの漫画に、私は戦意すら喪失してしまったのです」と後年回想している[1]

だが、『マカロニほうれん荘』が人気を博す一方で、若手の原稿料は低く抑える、という当時の編集部の方針で経済的には困窮しており、冬は暖房もない部屋で漫画を描き続け、「手があかぎれで腫れあがり、ミッキーマウスの手のようだった」と後年回想している。またアシスタントを入れることを「手抜き」と拒んだ鴨川は強力な眠気覚まし用のアンプル(かつて大正製薬から販売されていたピロン内服液)を1日10本以上取って徹夜を連日繰り返し、一人で原稿を仕上げていたという。このような執筆状況にもかかわらず、原稿は描き損じやはみ出しの修正のほとんど無い、きれいな仕上がりを維持していた[2]。のちに鴨川は「この作品と心中してもいい」という気持ちで『マカロニほうれん荘』を描いていたと回想している。

こうした中、やがて人気作ゆえに続きを描き続けていく事のプレッシャーと不眠不休の過労で体を壊したことから何度も連載終了を編集サイドに打診。しかし聞き入れてもらえず追い詰められた結果、わざと作品をサインペンで雑に描き入稿するなど、漫画執筆を放棄するかのような非常手段に出たため、編集部も渋々認め、1979年に連載は終了した。2019年に少年チャンピオンの元編集者たちによって行われた座談会では、「鴨川先生はカベさん(壁村)に潰されたようなもの」との指摘がなされている[3]

その後も同誌で『ミス愛子』『マカロニ2』を連載したが、1980年半ばに『週刊少年キング』(少年画報社)に移り、東京ひよこ(東京ひよこプロダクション)の名義で『プロスパイ』の連載を開始した。当初は東京ひよこが鴨川つばめであることには触れられていなかったが、連載終了時にその正体を明かす「おまけのページ」を掲載し、再び鴨川つばめとして漫画連載を行う旨が告知された。引き続き少年キングでは『ドラネコロック』の続編ともいえる『DタウンCロック』や『AAO(エイエイオー)』が連載され、特に『AAO』では『マカロニほうれん荘』のキャラクターを再び登場させるなどの試みも見られた。

鴨川自身はマスコミ嫌いで対人恐怖症だと言われているが、1992年に『SPA!』(扶桑社)8月12・19日合併号でインタビューに応じたほか、大泉実成太田出版の『Quick Japan』誌において連載した『消えたマンガ家』シリーズ(のちに単行本にまとめられ、1996年太田出版より刊行)で「過去について話すのは今日が最後」という条件でラスト・ロング・インタビューに応じ、同誌Vol.8でも『消えたマンガ家』の番外編として、小山田圭吾との対談が収録された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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