この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "鴨下信一"
かもした しんいち
鴨下 信一
生誕 (1935-03-17) 1935年3月17日
東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)
死没 (2021-02-10) 2021年2月10日(85歳没)
東京都
死因肺炎
出身校東京大学文学部美学科
職業テレビプロデューサー、演出家、実業家、エッセイスト
子供鴨下潔
テンプレートを表示
鴨下 信一(かもした しんいち、1935年(昭和10年)3月17日[1] - 2021年(令和3年)2月10日)は、日本のテレビプロデューサー、演出家、実業家、エッセイスト。TBSテレビ相談役[2][3]。東京府東京市下谷区(現・東京都台東区)竹町出身[3][4]。 開成学園を経て[5][3]、1958年に東京大学文学部美学科卒業。在学中は倉本聰らとギリシャ悲劇研究会で活動した[1][2][3]。 大学卒業後、ラジオ東京へ入社[3]。音楽番組を担当した後、幸せそうな中流家庭の崩壊を描いた『岸辺のアルバム』や、若者群像劇の先駆けとなった『ふぞろいの林檎たち』でテレビドラマ界を代表する演出家となった[6][3]。『ふぞろいの林檎たち』に出演した柳沢慎吾は鴨下の演出に鍛えられたと語っている。 同時期のTBSからは、多くの名物演出家が誕生し、その中で飯島敏宏、実相寺昭雄、久世光彦は早くに独立した。一方、TBS内で管理職として定年まで務めたのち演出家として活躍したのが、大山勝美、堀川とんこうである。鴨下もその1人であるが先述5人と異なるのは、劇場映画を監督していないことである。鴨下は、1993年に制作局長、1995年に常務になるが、翌年にTBSビデオ問題に絡み取締役に降格。1997年再び常務に昇格した[7]。2001年に上席執行役員、2003年に社長室顧問、のちTBSテレビ相談役。 文学通・戦後の庶民史に精通した文筆家としても知られ[3]、『忘れられた名文たち』など日本語の文章に関する著作があり、舞台演出にも取り組んだ[7]。また音楽番組を経験したことから、日本レコード大賞の委員も長く務めた。 2010年にはTBSの競合局であるフジテレビの自己批評番組『新・週刊フジテレビ批評』に出演し、現在のドラマに見受けられる「前回のあらすじがない」、「出演者の年齢ギャップ」、「自閉的キャスティング」、「貧弱する脚本」という4つの問題点を挙げ、「原点に返って、対立がちゃんとあって、テーマがハッキリしているドラマらしいドラマを作らなければダメ。各局だけで考えず、ドラマを作っている人たち全員で考えないといけない。」と語った[8]。 2021年2月10日、肺炎のため東京都内の病院で死去。85歳没[9]。 息子の鴨下潔は、TBSスパークル取締役(ニュース情報本部長・デジタルクリエーションラボ室担当)を務める。
来歴・人物
親族
テレビドラマ
TBSテレビ時代
松本清張シリーズ・黒い断層「声」「青のある断層」(1961年)
奇妙な仲(向田邦子脚本、1969年)
日曜8時、笑っていただきます(1970年 - 1971年)
東芝日曜劇場
二人だけの道シリーズ(1972年 - 1973年)
もの言わぬ愛(1973年)
お母ちゃん笑って(1973年)
お母ちゃんごめんネ(1973年)
お母ちゃんありがとう(1973年)
私の中のあなた(1976年)
眠り人形(向田邦子脚本、1977年)
女たちの忠臣蔵(1979年)
微笑みの秋(1988年)
夕やけ小やけでまだ日は暮れぬ(1992年)
おんなの家(1974年 - 1993年)
寺内貫太郎一家2(1975年)
岸辺のアルバム(1977年)
せい子宙太郎(向田邦子脚本、1977年 - 1978年)
なぜか初恋・南風(1980年)
およめちゃん(1980年)
幸福(向田邦子脚本、1980年)
関ヶ原(1981年)
想い出づくり。(1981年)
ふぞろいの林檎たちシリーズ(1983年、1985年、1991年)
花の吉原 雪の旅
ガンコおやじに敬礼!(1985年)