鳳凰丸
「鳳凰丸」の絵
基本情報
建造所浦賀造船所[1]
艦歴
発注江戸幕府[1]
起工1853年10月22日
竣工1854年6月6日(安政元年5月[1])
その後戊辰戦争後、兵部省を経て大蔵省所属に移管。
要目
排水量600トン(推定)[2]
長さ120尺[1](36.4 m)
幅30尺[1](9.1 m)
吃水15尺 (4.5 m)
帆装3檣バーク型[3]
兵装7.5貫目大筒 4門、3貫目中筒 6門
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鳳凰丸(ほうおうまる)は、幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工した。蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用された。
鳳凰は聖天子が国を治める時に現れる想像上の鳥で、「鳳」が雄で「凰」が雌を指す[3]。
建造の経緯竣工翌年の「鳳凰丸」の絵。安政2年仲春(旧暦2月、1855年3月頃)に描かれたもの
「鳳凰丸」は、1853年(嘉永6年)に建造が決まった。これは、同年に起きた黒船来航を受けて、海防強化策の一環として決まったものである。幕府の命により、浦賀奉行所の担当で建造されることになった。同時期に、水戸藩に「旭日丸」の建造が命じられたほか、薩摩藩も「昇平丸」などの建造を進めつつあった。これらの大型洋式軍艦の建造に合わせて、大船建造の禁も解除された。
江戸湾の海上警備を担当する浦賀奉行所は、1846年のアメリカ東インド艦隊(司令長官:ジェームズ・ビドル提督)の来航などを踏まえ、軍用船の整備を従来も細々と進めてきていた。1849年(嘉永2年)には、西洋のスループの設計を取り入れた和洋折衷の小型帆船「蒼隼丸」を建造したこともあった。黒船来航後、浦賀奉行は火災事故で失われていた「蒼隼丸」他の代船建造を提案、老中・阿部正弘の強い後押しを受けて「鳳凰丸」とスループ2隻の建造として実現することになったのである[4]。
建造は、中島三郎助を中心に香山栄左衛門、佐々倉桐太郎、春山弁蔵ら浦賀奉行所の与力、同心を担当者として、船大工棟梁の粕屋勘左衛門の協力の下で進められた[5]。ただし、船舶工学出身の海事史研究者である安達裕之
は、中島ら与力や同心の関与は管理部門だけで、実際の設計などは船大工が行っていたと推測している[6]。1853年10月22日(嘉永6年9月19日)に浦賀造船所で起工され、1854年6月6日(嘉永7年5月10日)に竣工した。建造期間は8か月間という驚異的な短さで、3か月早く起工されていた「昇平丸」(1854年12月竣工)よりも先に完成し、そのため「鳳凰丸」が日本で建造された最初の洋式大型軍艦となった[5]。本船を建造した浦賀造船所は「咸臨丸」の整備などにも利用されたほか、明治維新後に再興されて軍艦用の造船所として発展している。
なお、竣工した「鳳凰丸」には、日本船籍を示す船旗(当時の用語で「惣船印」または「総印」)に新たに定められた日の丸が掲揚されたことから、日の丸を初めて掲揚した船との説がある。日本船旗としての日の丸の起源についての定説は、薩摩藩主・島津斉彬と幕府海防参与・徳川斉昭らの進言によって惣船印には「日の丸」の幟を用いることになり、1854年9月1日(嘉永7年7月9日)に老中・阿部正弘により布告されたというものである[7]。実施の第1号は1855年(安政元年)に薩摩藩から幕府に献上された「昇平丸」の船尾に掲揚された日の丸とされ[8]、歴史学者の松本健一や国文学者の暉峻康隆など複数の学者がこれを支持している[7][9]。