鳥羽港
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鳥羽港 (とばこう) は、三重県鳥羽市にある港湾。三重県が管理しており、地方港湾に指定されている。鳥羽市を港町たらしめてきた港であり、伊勢志摩の海の玄関口をなす重要な観光地でもある。

鳥羽湾(とばわん)と呼ばれることもあるが、同義である。1927年昭和2年)に鳥羽湾が大阪毎日新聞社東京日日新聞社主催の日本百景に選定された[1]
定義

三重県東部・志摩半島の北部、伊勢湾口に位置し、港湾面積は300haである。

次の地点を直線で結び、囲まれた海域が鳥羽港の範囲である。

日向島(通称イルカ島)東端 - 坂手島の田ノ崎

坂手島の尾ヶ崎 - 安楽島町安久志

日向島東端 - 小浜町の鳥羽グランドホテルのある岬

三重県道750号阿児磯部鳥羽線の安楽島大橋以東

港湾地区

鳥羽港は以下の7つの地区からなっている。
小浜(おはま)地区
小浜町。鳥羽十景に数えられる三ツ島やイルカ島が浮かぶ。
佐田浜(さだはま)地区
鳥羽一丁目。JR近鉄鳥羽駅に隣接し、鳥羽市営定期船の佐田浜桟橋がある。
岩崎(いわさき)地区
鳥羽一・三丁目。ミキモト真珠島鳥羽水族館といった観光スポットが集まる。鳥羽城城下町でもある。かつてはここにも桟橋があったが、佐田浜に移った。
中之郷(なかのごう)地区
鳥羽三?四丁目。伊勢湾フェリーの発着場と市営定期船の中之郷桟橋がある。魚市場が設置されており、多数の漁船が係留されている。
赤崎(あかさき)地区
鳥羽四丁目。鳥羽マリンベースや市営定期船の赤崎桟橋がある。
安楽島(あらしま)地区
大明東町及び安楽島町。鳥羽市立図書館三重県立鳥羽高等学校などの文教地区や安楽島旅館街がある。鳥羽ドック船舶修繕ドックがある。
坂手(さかて)地区
坂手町。坂手島の集落は南東部(坂手漁港)にあるため港湾区域外であるが、鳥羽港に含まれる西岸には鳥羽市水産研究所がある。
佐田浜と中之郷

佐田浜と中之郷は鳥羽市営定期船の鳥羽本土の拠点である。佐田浜桟橋は鳥羽駅前、中之郷桟橋は中之郷駅前にある。
佐田浜
詳細は「
佐田浜」を参照1961年(昭和36年)に計画が表面化し、地元住民の反対運動が発生した[2]1966年(昭和41年)6月2日に起工式を挙行し、3年の歳月をかけて68,000m2を埋め立てた[3]1970年(昭和45年)には岩崎地区から港湾業務の移転を完了し、鳥羽港の中心となった[3]
中之郷
1960年(昭和35年)に地盤沈下対策事業として鳥羽市が埋め立てを開始し、1974年(昭和49年)に三重県の事業に移行した[4]1980年(昭和55年)1月24日竣工[4]

旧・佐田浜

新・佐田浜

中之郷

歴史
草創期

古代には泊浦(とまりのうら)と呼ばれ、水深は深くが穏やかな天然の良港として知られていた。このため、「泊浦御厨」として伊勢神宮内宮の支配下におかれた[5]

室町時代から戦国時代にかけての志摩国は「志摩十三地頭」と称される海賊衆が各地区を治めていたが、その盟主的存在だったのは泊浦を支配していた橘主水[注 1]であった。橘氏は泊浦に出入りする船舶を管理する地位にあり、十三地頭の間を取り持っていた。[6]

そのような中、16世紀後半に英虞郡波切(現在の三重県志摩市大王町波切)の地頭だった九鬼嘉隆が突然反乱を起こし、一度は志摩国を追放される[6]織田信長に仕えたことで再び志摩国を襲い、平定する。九鬼は答志郡鳥羽[注 2]を本拠地とすることに決め、文禄3年(1594年鳥羽城を築城した。鳥羽城は海に面した天然の要塞「樋の山」[注 3]に築かれたことから別名「鳥羽の浮城」と称された[注 4]
成長期鳥羽湊と日和山を描いた浮世絵(歌川広重画)

江戸時代には鳥羽藩の藩庁が置かれ、城下町として発展する。また上方江戸を結ぶ菱垣廻船樽廻船遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港することとなった。港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。この重要性は幕府も認識しており、山田奉行所[注 5]の職務の1つに「鳥羽港の警備」が含まれていた[注 6]。そして鳥羽港に安全に入港できるよう、延宝元年(1673年)、菅島に「御篝堂(おかがりどう)」、神島に「御燈明堂」が幕府によって設けられた。[注 7]これは、日本初の公設灯台とされている[7]

明治時代に入ると民間資本で鳥羽造船所(現在のシンフォニア テクノロジー株式会社[注 8]鳥羽工場)が設置され、工業部門も発達する。明治44年(1911年7月21日には鉄道省参宮線が乗り入れ、佐田浜に終着駅鳥羽駅が開業、昭和4年(1929年7月23日には志摩電鉄(現在の近鉄志摩線)が鳥羽駅以南を建設した。


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