鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。
茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。
経歴
1902年(明治35年)3月4日、神奈川県中郡須馬村須賀1226番地に、父、鳥海力蔵、母あぐりの次男として生まれる。
1916年(大正5年) 藤嶺中学校(現:藤嶺学園藤沢高等学校)に編入学する。
1917年(大正6年) この頃から油彩画を描きはじめる。
1921年(大正10年) 3月、藤嶺中学を卒業。翌月、関西大学予科に入学。
1922年(大正11年) この頃から筆名の青児を名乗る。
1924年(大正13年) 3月、第2回春陽会展に応募した『洋女を配する図』、『平塚風景』が初入選。以後1930年(昭和5年)まで連続入選を果たす。また、この頃三岸好太郎の知遇を得る。
1927年(昭和2年) 関西大学経済学部を卒業。
1928年(昭和3年) 三岸好太郎、三岸節子、森田勝と札幌市に滞在。『水無き川』を制作。
1929年(昭和4年) 『うづら』を制作。
1930年(昭和5年) 5月、フランスのパリに渡欧。9月にアルジェリアを訪問。翌年パリに戻る。
1931年(昭和6年) パリにて、滞欧していた海老原喜之助、野口弥太郎、森田勝と交遊する。
1932年(昭和7年) アルジェリアからモロッコへ旅行。ゴヤの絵画を見るためにスペインのマドリードに5ヶ月滞在。パリに戻ったのち、レンブラントを見るためにオランダのアムステルダムに赴く。途次、アントウェルペンで貿易商を営んでいた日本人実業家宮田耕三
砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
受賞歴
1928年(昭和3年)?第6回春陽会賞(『芦屋風景』、『水無き川』)
1929年(昭和4年)?第7回春陽会賞(『北海道風景』)
1956年(昭和31年)?第6回芸術選奨文部大臣賞
1958年(昭和33年)?第3回現代日本美術展最優秀賞(『ピカドール』)
1959年(昭和34年)?第10回毎日美術賞
代表的な絵画作品
『平塚風景』[1](1926年) 神奈川県立近代美術館
『水無き川』 (1928年)
『うづら』 (1929年) 宮城県美術館
『闘牛』[2] (1932年) 茨城県近代美術館
『ノートルダム』 (1933年) メナード美術館
『川沿いの家』 (1934年) 大原美術館
『信州の畠』 (1936年) 東京都現代美術館
『道化』 (1936年?1938年) 平塚市美術館
『沖縄風景』 (1940年) 同上
『オランダ水差しとレモン』 (1949年?1951年) 同上
『ピカドール』 (1958年) 同上
『壁の修理』 (1959年) 同上
『昼寝するメキシコ人』[3] (1964年) 神奈川県立近代美術館
『フラメンコ』 (1971年) 平塚市美術館
画集
『鳥海青児滞欧素描集』 造形芸術研究所出版部 1958年
『鳥海青児画集』 三彩社 1967年
『鳥海青児画集』 いとう画廊 1968年
『画業50年記念「鳥海青児展」記念画集』(非売品) 毎日新聞社 1971年
『日本の名画35 鳥海青児』 講談社 1974年
『現代日本の美術 第13巻 鳥海青児/岡鹿之助』 集英社 1975年
脚注^ ⇒『平塚風景』作品画像 神奈川県立近代美術館HP
^ ⇒『闘牛』作品画像 茨城県近代美術館HP