鳥山晃
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漫画家の「鳥山明」とは別人です。

とりやま あきら鳥山 晃
生誕1898年6月20日
東京府荏原郡品川町
死没 (1994-11-30) 1994年11月30日(96歳没)
居住 日本
国籍 日本
研究分野医学
研究機関昭和医科大学
昭和大学
出身校東京帝国大学医学部卒業
プロジェクト:人物伝
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鳥山 晃(とりやま あきら、1898年6月20日 - 1994年11月30日)は、日本医師医学者眼科学)、写真家位階正四位勲等勲二等学位医学博士東京帝国大学1931年)。

昭和医科大学医学部教授、昭和医科大学病院院長昭和大学医学部教授、昭和大学学長学校法人昭和大学理事長などを歴任した。
来歴
生い立ち

東京府荏原郡品川町(現品川区)で生まれた。 東京帝国大学で医学を学び、1926年に卒業。自身の健康状態は良くなく、恩師によって比較的安定し労働時間状況が良いとされていた眼科を勧められたといわれている。1931年に『眼瞼,眼窩及び涙道の淋巴管に就きて』の論文によって、医学博士号を東京帝国大学より授与される[1]
医学者として

1928年には昭和医科大学の眼科教授になり、1962年昭和医科大学病院院長に就任した[2]。その後、昭和大学医学部になってからの1969年に学長に就任した。鳥山はまた大学の理事会の理事長にも就任。1988年には両役職からは引退したが、顧問を続けた。1994年11月30日に死去。

鳥山は1971年に瑞宝章、1994年正四位を授与された [3]
写真家として

1934年、鳥山は眼科医として仕事に余裕があることに気づき、叔父のアマチュア写真家鳥山靖成が日本写真会(JPS)に紹介される。会を通じて写真スキルが急速に発達する。 1937年までに彼の作品は、フランスのパリオランダのアムステルダム、そして日本でのグループ展に出展される [4]

鳥山が写真活動の一環として参加したJPSは1920年代からの福原信三のフレーズ「光とその調和のある光と其諧調」(光と其諧調)というテーゼを保持し(たとえば、その雑誌のタイトルとして) [5]金子隆一は、JPSの作品は時代とともに変化したと指摘している。写真への特定の絵画的影響については拒絶していたが、日本の伝統的な美学の主題と構成を取り入れた当初から、都市のシーンや断片の描写を含むようになる。金子によると鳥山は福原路草の影響を受けてさらに突き進んだという。たとえば、彼の植物の写真で「葉、茎、枝の彫刻的品質に重点を置いていることは、今日でも新鮮」と指摘し、さらに彼のスタイルは、植田正治や野村晃などの1930年代後半に登場し、ピクトリアリストではなくモダニストと考えられている世代の写真家のスタイルに似ているとしている。金子によると鳥山の作品は「モダニストが自分の人生を生き、自分を表現するという意志を十分に証明している」と結論付けている。

彼の医療のキャリアが進むにつれて写真撮影も続くが、ほとんど注目はされなかった。彼の死後、吉川富夫(昭和大学)が自宅を訪れ、膨大な数の写真を残していることを知る。吉川はすぐにこれらのコレクションを発表[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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