医学者、写真家の「鳥山晃」とは別人です。
とりやま あきら鳥山 明
ニューヨークでのイベントにて(2002年)
生誕 (1955-04-05) 1955年4月5日
日本 愛知県西春日井郡清洲町(現:清須市)[1]
死没 (2024-03-01) 2024年3月1日(68歳没)
職業漫画家
デザイナー
称号芸術文化勲章
活動期間1978年 - 2024年
ジャンル少年漫画
代表作.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
漫画
『Dr.スランプ』
『ドラゴンボール』
デザイン
『ドラゴンクエスト』
『クロノ・トリガー』
受賞
第27回小学館漫画賞少年少女部門(『Dr.スランプ』)
第4回文化庁メディア芸術祭インタラクティブ部門大賞(『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』)
日本のメディア芸術100選 マンガ部門3位選出(『ドラゴンボール』)
第40回アングレーム国際漫画祭40周年記念特別賞
フランス芸術文化勲章「シュバリエ」
東京アニメアワード2024 アニメ功労部門
サイン
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鳥山 明(とりやま あきら、1955年〈昭和30年〉4月5日 - 2024年〈令和6年〉3月1日[2])は、日本の漫画家、キャラクターデザイナー。
プロダクションはBIRD STUDIO(バード・スタジオ)。愛知県清須市[3][4][5][6][7](旧:西春日井郡清洲町)出身[注 1][1]、同市在住[9]。妻は少女漫画家のみかみなち[10]。
代表作の『Dr.スランプ』の累計発行部数は3000万部を記録[11]、『ドラゴンボール』は2億6000万部を記録[12]、『ドラゴンクエストシリーズ』は、8,800万本の出荷本数を記録している[13]。
日本の漫画が海外で「MANGA」と呼ばれ、世界に広まるきっかけを作った先駆者であり、数多くの文化に影響を与え、「伝説の漫画家」「史上最も影響力のある漫画家」と評価されている[14][15][16]。 1978年に『週刊少年ジャンプ』52号にて読み切り作品『ワンダーアイランド』でデビュー。集英社との専属契約下で『週刊少年ジャンプ』などジャンプ系列誌に作品を発表。代表作『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』はいずれもテレビアニメ化され、1981年から1999年にかけてフジテレビ系列の毎週水曜日19時 - 19時30分は『Dr.スランプ アラレちゃん』から始まり、『ドラゴンボール』『ドラゴンボールZ』『ドラゴンボールGT』『ドクタースランプ』と、長期にわたり鳥山原作のアニメが放映されていた。「フジテレビ系列水曜夜7時台枠のアニメ」も参照 漫画家としての活動の合間にデザイナーとしても活動し、『ドラゴンクエストシリーズ』などのゲームやマスコットのキャラクターデザイン、プラモデルや車などのデザインを多数手掛けている。漫画家デビュー以来、地元で活動を行っており、『Dr.スランプ』単行本(1980年発行)の描きおろしページによると、当時は名古屋空港(小牧空港)から航空便で東京に原稿を送っていた[注 2][19]。初代編集担当者の鳥嶋和彦によれば、鳥山は『Dr.スランプ』連載中も東京で暮らすことを嫌がって地元の愛知で暮らしており、連載中に一度でも原稿が締め切りに間に合わなかった場合は東京で暮らしてもらうという約束で連載をしていたが、結局一度も原稿を遅延させることはなかったという[20]。 1980年から1990年代の『(週刊少年)ジャンプ』の全盛期を支えた立役者であり、当時編集長を務めた西村繁男は、「『週刊少年ジャンプ』発行部数600万部達成の快挙は、鳥山明の破壊的なパワーを借りて初めて実現し得たことは、誰も否定できないだろう」と評価している[21]。 『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』は2024年の現在でも、コマーシャルに起用されたり、グッズが作られるなど根強い人気を博している。 2024年3月1日、急性硬膜下血腫のため死去。68歳没。訃報は同8日に『週刊少年ジャンプ』公式サイト、集英社、バード・スタジオおよびカプセルコーポレーション・トーキョーの連名で公表された[22]。 初代担当編集者の鳥嶋和彦と面会した鳥山は自分の生い立ちについて語り、「家は貧しかったが両親共にのんびり屋の性格で、食べ物を買うお金がない代わりに、両親は二人でワルツを踊るような人だった」と本人が述べている。 鳥山自身は絵を描くことが好きで、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていた[23]。欲しい物があるとそれを手に入れるまで、あるいは興味がなくなるまで絵に描き続ける癖があり、その癖は漫画家になって以降も続いている[24]。「当時通っていた絵画教室で描いた『101匹わんちゃん大行進』が表彰されたことで自信を持った」と言い[25]、小学校の写生コンクールで数回入賞し、高校時代には美化キャンペーンのポスターで全国高校生の部で入賞している[26]。妹がいる。よく悪戯をしていて、父親に怒られていた[27]。 尊敬していた漫画家は手塚治虫とウォルト・ディズニーで、『鉄腕アトム』に登場するロボットを毎日いたずら描きしていた[28]。一番影響を受けたのはディズニーアニメであり[29]、『101匹わんちゃん大行進』にディフォルメの影響を受けて毎日模写をしていた[30]。 愛知県西春日井郡清洲町(現:清須市)の町立清洲中学校[31]、同県一宮市の愛知県立起工業高等学校(現在の愛知県立一宮起工科高等学校)デザイン科を卒業した[32]。幼少時は漫画やアニメに熱中したが、小学校高学年以降は映画やテレビドラマに興味の対象が移り、漫画に触れる機会が無くなっていた[33][34]。しかし、絵を描くことは変わらず好きで自信もあったため、起工業高校デザイン科に進学した。高校時代は美術部に所属した[32]。 「高校時代はマンガ研究同好会に所属し、同好会の会長にもなったが漫画を描くことはなかった」という[35]。鳥山が漫画同好会を設立するに当たり、教諭に同会顧問に就任してほしい旨を頼んだところ、教諭は一旦は「漫画を描いている暇があったら、デッサンでもやっておきなさい」と断ったものの、鳥山は別の教諭に依頼して同好会を発足させ、後に部に昇格した[32]。1974年に同校を卒業した。 高校を卒業した1974年、絵を描く仕事に就きたいと思い、地元の広告関係のデザイン会社「第一紙行名古屋支店」[36]にデザイナーとして就職した。 しかし、平然と遅刻を繰り返し[37][38]、レタリング作業が主な仕事になり嫌気が差していたという。最終的に、約2年半[39]ほど経った1977年[40]1月[41]に退職した。本人は「わずかでも世間の仕組みを知ることができて、無駄ではなかった」と述べている[39]。 デザイン会社を退職後、1年間はアルバイトでイラストを手掛けていたが[26]、その後は遊ぶ金もなく途方に暮れていたある日、喫茶店[42]で偶然手に取った漫画雑誌の『週刊少年マガジン』で、新人賞の作品募集の記事を見つける。入賞すると賞金50万円が手に入ることを知り、23歳にして初めて漫画を描き始めた[43]。結局、締め切りには間に合わなかったため、1978年1月に『週刊少年ジャンプ』の新人賞である月例ヤングジャンプ賞へ応募作品の『アワワワールド』を投稿する[29][44]。投稿したのはギャグ漫画であるが、その理由はストーリー漫画と賞金が一緒なのにページ数は半分であったため[38][45]。 投稿した作品は入賞には及ばないかったものの[46]、すぐにまた描き上げた鳥山の投稿作品『謎のレインジャック』を目にした『週刊少年ジャンプ』の編集者の鳥嶋和彦は作中の描き文字(擬音、擬態語など、写植以外の文字のこと)をカタカナでなくアルファベットを使用していることや、対象を様々な角度から描けること、絵が丁寧に描き込まれていることにセンスを感じ[38][47]「今は下手だが頑張れば何とかなるかもしれないから、もっと描いて送ってよ」とアドバイスをした[44]。この頃は『スター・ウォーズ』のパロディなどを描いており[47]、一部の作品は後にファンクラブの会報に掲載された。なお、この作品自体はパロディは賞の対象にならない規定により選外になった[38]。 鳥山は厳しくネームのボツ(不採用)を出す鳥嶋のもとで懸命に修行することになる。この間のボツ原稿の総量は、1年で500ページにも及んだ[38][48]。 鳥山明は本名である。デビュー前は「どうせ売れる訳がない」と思っており、ペンネームを使う発想もなく本名で通した[29]。『Dr.スランプ』第11巻によれば愛知県に3軒しかない変わった名前で、デビュー直後はイタズラ電話がよくかかって来たという。そのため、“水田二期作(みずたにきさく)”というペンネームを使おうとも考えたが、担当者に「つまらん」とボツにされた[28]。「本名を使ったことが漫画家になって一番後悔したこと」であるという[29]。ただし、鳥山明のデビュー当時の愛知県の電話帳を調べると、名古屋版の五十音別電話帳に載っている、局番が名古屋市と同じだが名古屋市でない地域の鳥山家は3軒であるものの、その他に名古屋市内の鳥山家が77軒載っている[49]。名古屋以外の愛知県の各電話帳にも合わせて300軒ほどの鳥山家が載っている[50]。 1978年、『週刊少年ジャンプ』にて読み切り作品『ワンダー・アイランド』でデビューを飾るも、読者アンケートの結果は最下位であり[51]、その後『週刊少年ジャンプ』本誌や増刊号で発表した短編作品の人気も、芳しいものではなかった。しかし、鳥嶋は鳥山の手を離すことなく「面白い漫画を作り上げよう」と打ち合わせを重ねた。そして『Dr.スランプ』の基本コンセプトが誕生した。鳥山は当初、自称天才科学者の則巻千兵衛を主役と決めており、則巻アラレは脇役と考えていたが、鳥嶋は「アラレを主人公にした方が良い」と提案した[52]。
概要
生涯
幼少時代
デザイン会社時代
デビューまでの経緯
Dr.スランプの連載『Dr.スランプ』の完全版
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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