鳥居龍蔵
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江戸幕府の幕臣「鳥居耀蔵」とは別人です。

鳥居 龍蔵毎日新聞社「毎日グラフ」(1952年1月10日号)
人物情報
生誕 (1870-05-04) 1870年5月4日
日本徳島県徳島市東船場町
死没1953年1月14日(1953-01-14)(82歳)
学問
研究分野人類学民族学考古学
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鳥居 龍蔵(とりい りゅうぞう、1870年5月4日明治3年4月4日) - 1953年昭和28年)1月14日)は、日本人類学者民族学者考古学者
人物

1870年(明治3年)、徳島の新町橋近く(現在の徳島県徳島市東船場町)にある煙草問屋に生まれる[1]

実家は裕福で、周囲から「旦那衆」と呼ばれていた[2]

1876年明治9年)、観善小学校(現・徳島市新町小学校)に入学したが、学校になじめず家に逃げ帰ることも多かった[1]。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている[2]。しかし、学校の教科書にあった世界の人類の人種に関する記述が印象に残り、のちにアジア各地を調査する原点になった[1]。なお、晩年の自伝「ある老学徒の手記」には「尋常小学校を中途で退学」と記されていたため、多くの資料でも同様の記載がなされていたが、のちに徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の所蔵資料から新町小学校尋常小学下等科の卒業証書が発見されており記憶に錯誤があったものとみられている[3]。また、上智大学文学部長だった1931年の日付が入った鳥居の履歴書も発見されており「尋常小学は寺町(現新町)小学校ニテ学修、高等は中途ニテ退学」と記載押印されている[3]

中学校の教師の教えを受けながら[2]独学で歴史や文学、英語ドイツ語数学などを学ぶ[1]

1886年(明治19年)、鳥居は人類学会が設立されたことを知り入会し[1]、『人類学雑誌』の購読者となったことが縁で東京帝国大学の人類学教室と関係を持つようになった[2]。そこで坪井正五郎と知り合い、1888年(明治21年)には坪井が龍蔵の家を訪問しており、坪井が徳島に来訪して寺で講演会を開いたのをきっかけに地元で研究グループを作った[1]

鳥居は東京に来て学ぶよう誘われており、1890年(明治23年)に上京したが坪井はヨーロッパ留学に出た後だったため徳島出身の先輩を頼って東京国立博物館などで学んだ[1]1892年(明治25年)に坪井が東京に帰ると人類学教室に通うようになり同年には家族での東京移住を決意[1]。東京遊学を言い出した鳥居に両親はしぶしぶ賛成するが、結局煙草屋は廃業し、両親とともに上京して貧乏生活を送ることとなった[2]

1893年(明治26年)、東京帝国大学人類学研究室で標本整理の仕事に就き、正式に研究室のメンバーとなり、坪井の指導を受けながら貝塚古墳の調査を行った[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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