logo鳥取城
(鳥取県)
全景(後背に久松山)
別名久松城、久松山城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造独立式望楼型3重3階(1573年、非現存)
複合式層塔型2層2階地下1階(1605年改、非現存)
築城主但馬山名氏
築城年天文年間(1532年 - 1555年)
主な改修者吉川経家、宮部継潤、池田長吉
主な城主山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、堀、井戸
指定文化財国の史跡
再建造物中仕切門、 大手門、擬宝珠橋
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度30分36秒 東経134度14分28秒 / 北緯35.51000度 東経134.24111度 / 35.51000; 134.24111
鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(因幡国邑美郡)にあった戦国時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定[1]され、別名は久松城(きゅうしょうじょう)・久松山城(きゅうしょうざんじょう)という。山名氏・武田氏・尼子氏・毛利氏の争奪戦の舞台となり、織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された[2]。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ[2]。鳥取城 古絵図。城址から望む市街。市街地から望む城跡。 戦国時代中頃の天文年間、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たした。高信はその後も豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。 1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信も和議を結び城を明け渡すが(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、まもなく豊国の手によって謀殺された。因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元
歴史・沿革
戦国時代
山名氏の内紛と毛利氏の侵攻
1575年(天正3年)芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着く。 1580年(天正8年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は、全て豊国が負担している。)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。 ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重
秀吉の鳥取城攻略戦
同年4月、因幡守護の豊国が織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は2度目の鳥取城攻撃をすることとなる。
秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施、後に『鳥取城の渇え殺し』と言われる程凄惨な兵糧攻めであった。
『陰徳太平記』によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出した。『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記され、人肉を食らう者まで現れたとしている。同年10月25日、城主の経家は切腹し、その代わりに将兵は助命するという条件で開城した。
開城後、飢えた将兵には粥が振る舞われたが、多くの兵がまもなく命を落とした。『信長公記』では「食べた人は食に酔ってしまい、過半数がすぐに死んでしまった」としており、『豊鑑』では「粥をたくさん食べたものはすぐに死んでしまったが、少し食べたものは問題なかった」としている[3]。この記録から低栄養状態で高栄養を摂取することで低血糖や電解質異常を起こして死に至るリフィーディング症候群ではないかという説が唱えられている[3][4]。
開城後の鳥取城には浅井氏の旧臣で秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。鳥取城落城により毛利方の前線は八橋城周辺の西伯耆まで後退し、すでに織田方に臣従していた南条元続の羽衣石城周辺の東伯耆で争うこととなる。 宮部継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、正式な鳥取城主となった。その後も継潤は九州平定後五奉行として連署するなど、豊臣政権の奉行として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕えた。 継潤の没後は子の宮部長房が受け継いだ。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門 関ヶ原の戦いの近江甲賀郡水口岡山城攻めでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修された。 1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。
豊臣政権下
江戸時代