鯰絵
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1.『志んよし原大なま津ゆらひ』
吉原遊女や客らが大鯰を罵り懲らしめる様子を描く。いっぽうで大鯰は遊女に乗られて喜ぶ姿に描かれる。左上は仲裁に入る職人ら[1]

鯰絵(なまずえ)とは、地下に棲む大鯰(地震鯰)が動くと地震が起きるという民間信仰をモチーフとし、震災直後に版行された戯画の総称[2]。狭義には安政2年(1855年)10月2日に発生した安政大地震直後に版行された多色摺りされた一枚絵(錦絵)を指すが[3]、2021年現在では「安政大地震に限らず地震直後に版行された錦絵や瓦版などの風刺画を意味する学術用語」とする広義が定着している[2][4]

鯰絵が大量に版行されたのは安政大地震の直後である。当時の記録によれば鯰絵を含む地震に関連する版行物は320点から400点にも及んだ。それらは錦絵・狂絵・戯画・鯰の絵・地震絵などと記されており、当時は鯰絵とは呼ばれていなかった[5]。定義によって異なるが、加藤光男は現存する鯰絵の作品数を鯰が描かれた鯰絵が156点、鯰が描かれない鯰絵が32点(図4)、見立は9点(図13-2)、瓦版は69点、小本は10点[注釈 1]としている[7]

江戸時代後期における錦絵は版下の段階で「改め」を受ける必要があったが、鯰絵の多くは幕府の許可を得ずに販売された無許可版行物(無改)であった。そのため改印はもちろん、版元・絵師・製作時期などが記されておらず、多くの作品で誰が関わったのか明らかになっていない[8][2][9]
特徴
情報性

鯰絵は江戸時代後期に瓦版をはじめとする情報化社会が確立されつつあった時期に版行されている。安政大地震の史料から社会的背景を分析した北原糸子は、災害に直面した武士知識人層は客観的事実を求めたのに対し、民衆は客観的事実よりも社会的事実、いいかえれば想像力を駆り立てるような情報を求めたと指摘し、その要求に応えたのが鯰絵であったとする[10]

また加藤も鯰絵が大量に出回った理由について「民衆も地震神話が迷信であることを理解しており、これを描く鯰絵は災害を伝えるメディアではなかった」としたうえで、被災者の不満解消および安心を得るための商品として時流に乗って爆発的に売れたとしている[11]
製作者.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}2-1.『みかけはこはゐがとんだいゝ人だ』2-2.『面白くあつまる人が寄たかり』歌川国芳の代表作(左)と、それをオマージュした鯰絵(右)。鯰絵に落款などはないが、これも国芳の作品である可能性が高い[12]

安政大地震の鯰絵の多くは無許可で版行された作品で、それゆえ後述する仮名垣魯文など一部を除き、多くの作品で誰が製作に携わったのか明らかではない[8][9]

当時活躍していた作者は『当代全盛江戸高名細見』に詳しいが、高田衛はこうした番付に掲載されるような戯作家や絵師であっても請われれば製作に応じていただろうと推測する[9]。そのうえで具体的に、戯作家として笠亭仙果梅素玄魚[9]、絵師として三代歌川豊国一門と歌川国芳一門の名を挙げる[9]。当時の風刺画と同様に鯰絵にも先行する浮世絵をオマージュした作品が多いが[13]、その元ネタになったのは歌川国芳とその一門の作品が少なくない(図2-1、2-2)[14]。高田は国芳こそが鯰絵ブームを仕掛けたプロデューサーのひとりであったとしている[15]
鯰の表現

コルネリウス・アウエハントは鯰絵における鯰の表現について、魚の姿と擬人化された姿の2種に分けて考察を行った[16]。魚として描かれる作品には、地震神話や瓢箪鯰をモチーフとしたもの、あるいは蒲焼などで供される場面で現れることが多い[16]。擬人化された鯰は、人々あるいは神々と共に登場することが多い。なかには地震を起こした事を悔い改めるものがあるいっぽうで、人間の一員として働き遊ぶ姿が描かれるものもある[16]

また北原も大鯰と小鯰(鯰男)に分けられるとする。そのうえで大鯰は神性を有しおおむね世の中を好転させる福の神として捉えられているのに対し(図3)[17]、小鯰は民衆の姿そのものあるいは恨まれ打擲される対象であるとする(図7-3)[18]

このほか鯰を直接的に描かない、いわゆる判じ物もある(図13-4)[19]
悪と善3.『大鯰江戸の賑ひ』
江戸湾に現れた大鯰が鯨の汐吹のように金銀を巻き上げ、それを見物する人々が喜ぶ姿を描く。本図は鯨を捕らえると莫大な利益が得られたことがモチーフになっており、歌川国芳の『大漁鯨のにぎわい』をオマージュした作品である[20]

鯰絵の大きな特徴のひとつが、鯰を地震の元凶である「悪」として描く作品だけでなく、富や福をもたらす「善」として描く作品も存在することである(図3)[21]小松和彦によれば、このようなプラスのイメージをもつ鯰絵は安政大地震後に現れた[22]

安政大地震が発生した江戸時代後期には、災害を主題とした錦絵(災害錦絵)が少なくない。鯰絵の他には疱瘡絵・はしか絵・コレラ絵などがあり、一般に「風刺画」あるいは「世相画」に分類される[23]。災害錦絵の多くは対象を「災害の神」として描くが、鯰絵のみに相反するはずの「善」の面が描かれている[21]

その理由について研究者は様々な解釈を試みてきた[24]。鯰絵に善と悪が描かれることを最初に指摘したのはアウエハントである。アウエハントは日本民俗信仰を源流とする両義的な神観念の表出としたうえで鯰をトリックスターと捉えた[24][25][26]

宮田登の世直し論では、現実世界に絶望した民衆が新たな世に変革させようとする思想(ミロク思想)が表出したものとしている。民俗学界での鯰絵の評価は世直し論に影響を受けたものが少なくない[24]

また北原の災害ユートピア論では、災害という非常事態の中で幕府の「御救い」と富裕層の「施行[注釈 2]」、御救い小屋での連帯感、生き残ったという安堵感などがユートピア意識を生み出すとしている。災害ユートピア論は歴史学界などで受け入れられ、被災から時間の経過と共に鯰絵のテーマが変遷するとする研究もある[27][24][22]
風刺

災害錦絵には災厄をもたらす神と人間の対立をユーモラスに描くという風刺的な要素をもつものが多い。鯰絵も「災害を当時の風俗を交えて面白おかしく描かれる」「江戸っ子の洒落っ気」などと評される[28]


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