鯖江藩(さばえはん)は、越前国今立郡西鯖江村の鯖江陣屋(現在の福井県鯖江市)に藩庁を置いた藩[注釈 1]。1720年に譜代大名の間部氏が5万石で入る。幕末期の藩主間部詮勝は老中となるが、井伊直弼のもとで安政の大獄を指揮したため、1862年にその責を問われて減封などの処分を受ける。以後、4万石の藩として廃藩置県まで続いた。 藩主家の間部氏は、第6代将軍・徳川家宣の信任を得て立身し、権勢をふるった側用人間部詮房の家であり、鯖江藩初代藩主となる間部詮言は詮房の嗣子(実弟)である[2]。 享保元年(1716年)に第7代将軍家継が没し、第8代将軍徳川吉宗の代になると、詮房は失脚した。享保2年(1717年)に上野高崎藩から越後村上藩に移封を命じられており[2]、城主格の家格は維持されたものの、左遷と見なされている[1]。詮房は享保5年(1720年)に没したが、跡を継いだ詮言に再度の国替えが命じられ、鯖江藩が立藩することとなる。 享保5年(1720年)9月12日、越後村上藩主・間部詮言に越前国内5万石(今立郡107か村、丹生郡14か村、大野郡11か村)[3]への移封が命じられた[2]。これらの村は幕府領で[注釈 2]、葛野陣屋(今立郡74か村と丹生郡14か村)と西鯖江陣屋(今立郡33か村と大野郡11か村)に管轄が分かれていた[1]。享保6年(1721年)3月26日、間部詮言は幕府代官の小泉市太夫
藩史
前史
間部家の入封
新領地に城はなく(間部氏の家格が無城大名へと降格したことを意味する[1])、藩庁には西鯖江村の旧幕府陣屋(西鯖江陣屋)[注釈 3]をそのまま使用することとなった[3]。鯖江は誠照寺(浄土真宗)の門前町で[6]、北陸道の間の宿ではあったが[6]、詮言に与えられたのは西鯖江村のみで、北陸道を挟んだ東鯖江村は小浜藩領であった[3]。西鯖江村は戸数27戸という寒村(村高800石)であったといい[7][6]、陣屋町の建設も困難なほど狭小であった[2]。このため鯖江藩は領地替えを幕府に申請し[3]、享保6年(1721年)9月9日に東鯖江村を鯖江藩領として、ようやく陣屋町建設に必要な土地を手に入れた[2][6]。陣屋町の形成に着手し、領国支配機構を整えた詮言は、領国入りを果たすことのないまま没した[6]。藩主の初めて領地入りが行われたのは、享保14年(1729年)、2代藩主・間部詮方の時であり[6]、これに合わせる形でおよそ8年を要した陣屋町建設は一応の完成を見たという[7][6]。 鯖江藩は越前国で最も遅く成立した藩であり、諸藩領に割り込む形で藩領が設定されたため[6]、領地は国内に分散して[8]一体性も薄かった[4]。短期間で2度の転封を命じられた上[9]、村上藩と鯖江藩は表高(5万石)は変わらないものの、村上藩では実高が7万石程度あったのに対して[9]、鯖江藩は表高通りの5万石で[9]生産力も低く[注釈 4]、「御物成(年貢)半減」と表現されるような収入の減少をもたらし[9]、藩は慢性的な財政難と窮乏化の進行に悩まされることになる。2代藩主・間部詮方の時代には利根川の手伝普請を命じられたほか、陣屋町は宝暦5年(1755年)に鯖江の大火
財政難と藩運営
5代藩主・間部詮熙は、家中や在方に厳しい倹約令を布くなど、厳しい財政運営を迫られた[6]。一方で儒者の芥川元澄(思堂)を藩儒として招き、後進の教育に当たらせるとともに、『間部家譜』『越前鯖江志』の編纂に当たらせた[6]。6代藩主・間部詮允は先代の遺志を継ぎ、江戸藩邸に「惜陰堂」、国元に藩校「進徳館」を開いた[6]。 7代藩主・間部詮勝は、奏者番に任じられて鯖江移封後の間部家で初めて幕政に関与[12]、以後大坂城代・京都所司代・老中を歴任した[7][13][12]。最初の老中就任は天保11年(1840年)であるが、水野忠邦と対立して天保14年(1843年)に辞任[12]。老中在職中に鯖江への築城許可が出ている(家格が城主格に復帰した)が、建設は実現しなかった[12]。御達山と呼ばれた丘陵地帯(長泉寺山)に領民の憩いの場ともなる庭園を開き「嚮陽渓」(現在の西山公園一帯)と名付けた[12]。 安政5年(1858年)、大老井伊直弼のもとで老中に再起用され[13]、勝手掛兼外国御用掛を務めた[12]。
幕末