鮑石亭
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慶州 鮑石亭址
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(Poseokjeong Pavilion Site, Gyeongju)
大韓民国指定史跡第1号
(1963年1月21日指定)
種類遺跡史跡
所在地 韓国
慶尚北道 慶州市拝洞454-3
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度48分26秒 東経129度12分46秒 / 北緯35.80722度 東経129.21278度 / 35.80722; 129.21278座標: 北緯35度48分26秒 東経129度12分46秒 / 北緯35.80722度 東経129.21278度 / 35.80722; 129.21278
面積5,234m2 (7,432m2[1]、7,445m2[2])
建設統一新羅時代南北国時代
管理者慶州市
所有者慶州市ほか
ウェブサイト ⇒????????
ユネスコ世界遺産
所属慶州歴史地域
登録区分文化遺産: (2), (3)
参照 ⇒976
登録2000年(第24回委員会)

.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}大韓民国における慶州 鮑石亭址
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(Poseokjeong Pavilion Site, Gyeongju)の位置

鮑石亭(ほうせきてい[3]ハングル: ???〈ポソクチョン〉)は、韓国慶尚北道慶州市拝洞(ハングル: ??〈ペドン〉)にあった新羅王室の別宮(べつぐう)である。曲水の宴が催されたという鮑(アワビ)形の水路跡が残存する[4]。1963年1月21日に大韓民国指定史跡第1号として指定され、現在は慶州鮑石亭址(ハングル: ?? ????)と称される[5]。2000年11月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産文化遺産)に登録された慶州歴史地域(慶州歴史遺跡地区、ハングル: ????????)の南山地区[6](慶州南山一円(朝鮮語版)〈史跡第311号[7]〉)の西の渓谷に位置する[2][5]
歴史

鮑石亭は、統一新羅時代[2]ハングル: ????、668〈676〉-935年[8]南北国時代〉)、慶州盆地の南に位置する南山(朝鮮語版)(ナムサン)の西麓[9]北側の鮑石渓(ハングル: ???〈ポソッケ〉)に造成された[10][11]王室や貴族の[12]遊宴のための離宮であった[13]。『東国通鑑』には、城の南に離宮があったことが記され[9]、『三国遺事』によれば、第49代憲康王(けんこうおう〈ホンガンワン〉、在位875-886年)の時代に、王が鮑石亭に行幸した際、南山の神が前に現れて舞ったとある[注 1]。これにより9世紀後半に鮑石亭があったものとされ[4]、創建はそれよりあまり古くない新羅末期であろうといわれる[12]。また、『三国遺事』には、第51代真聖女王(しんせいじょおう〈チンソンニョワン〉、在位887-897年)の時代に、花郎(ファラン)の孝宗郎(ヒョジョンナン〈金孝宗(朝鮮語版)[14]〉)が南山の鮑石亭に遊山したことが記される[注 2][12][15]

そして鮑石亭は、新羅の終焉にまつわる場所として知られる[4]。第55代景哀王(けいあいおう〈キョンエワン〉、在位924-927年)4年(927年)冬11月(天成2年〈927年〉冬10月[注 3][16])、後百済(フベクチェ)の甄萱(けんけん〈キョンフォン〉)の軍が王都に侵入したことを知らずに、王が鮑石亭でおよび一族らと宴遊していたところを突然襲われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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