鮎沢 伊太夫(あいざわ いだゆう、あゆさわ いだゆう文政7年(1824年)- 明治元年10月1日(1868年11月14日))は、幕末の武士・志士。水戸藩士。名は國維、字は廉夫、高橋諸往の二男、高橋多一郎の弟。 養子となり鮎沢家の家督を継ぐ。早くより文武の才に秀でた人物として弘道館舎長に挙げられる。弘化年間前藩主徳川斉昭の謹慎免除のために奔走し禁錮されるが、復権後は抜擢されて藩の勘定奉行となる。安政5年(1858年)、戊午の密勅を水戸藩に降してこれを諸藩に伝達すべきよう諭すが、安政の大獄により豊後佐伯藩に禁錮される。3年後赦されて京都に留まり尊皇攘夷の志士と交流を持つ。 帰藩し、元治元年(1864年)、武田耕雲斎の挙兵(天狗党の乱)に加わり西上したが途中より離れて京都大徳寺に潜伏し正義派の回復を謀る。戊辰戦争が始まり、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚が出されると、明治元年(1868年)3月水戸に帰り、その後奥羽征伐に従う。同年10月諸生党藩士たちが水戸城を襲撃するが(弘道館戦争)、伊太夫は寡兵を以てこれを防ぎ奮戦するも戦死した。享年45。明治31年(1898年)従四位を贈られる。
生涯
参考文献
『大百科事典』(平凡社、1931-35年) 著作権保護期間満了
更新日時:2018年4月11日(水)04:48
取得日時:2018/08/20 07:58