魔女狩り
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「魔女裁判」はこの項目へ転送されています。日本のテレビドラマについては「魔女裁判 (テレビドラマ)」をご覧ください。

神聖かまってちゃんの楽曲については「魔女狩り (曲)」をご覧ください。
棒にまたがった魔女図像の最初期のもの[1]。マルタン・ル・フラン(フランス語版)の長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より

魔女狩り(まじょがり、: witch-hunt)は、魔女とされた被疑者に対する訴追死刑を含む刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑(リンチ)等の迫害を指す。魔術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えたりすることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。

かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」と言われていた。現代では「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」という説が有力である。魔女狩りの様態は時代や地域によって幅があり、様々な社会的、文化的な背景が関係していると考えられている。また、「魔女」とされた者の大半は女性であるが、その一部には男性も含んでいる(セイラム魔女裁判ベナンダンティ弾圧など)。

魔女狩りとは必ずしも過去の出来事ではなく、現代でもアジアアフリカを中心に行われている(詳細は後述)。例えば、インドでは2000年から2019年までに少なくとも2975人が殺害された他、多くの女性が「魔女」として暴行や追放を受けているという[2]

魔術や宗教とは関係のない文脈で、過度の犯人捜しやバッシングを批判する際の比喩として「魔女狩り」と表現する事例もある[3]
ヨーロッパにおける魔女狩り

古代以来、何らかの超自然的な手段で他者を害することのできる人がいると信じられていた。ヨーロッパにおいてこの信仰はラテン語でマレフィキウム(英語版)と呼ばれる「害悪魔術」の概念につながっていく。

ギリシア語のパルマコン(pharmakon)は医薬と毒薬という両義性を持つ言葉で、これから古代ギリシア妖術に相当するパルマケイア (pharmakeia)という言葉が派生した。イオニアの古代都市テオースで、毒ないし悪しきまじない(pharmaka deleteria)で人や国家に危害を加える者は死すべし、という禁令があったことを示す史料があり、他の都市にも同様の掟があったと考えられる。

古代ローマではいかなる魔術も犯罪として処罰の対象であった。共和政ローマ最初期の成文法『十二表法』では、超自然的な方法で他人の畑作物を自分のものにする行為などに対する刑罰が規定されていた。リウィウスの『ローマ建国史』によると、疫病で多数の死者が出た前331年に、170人がウェネフィキウム(veneficium、毒殺ないし妖術)の嫌疑をかけられて処刑された。さらに前2世紀には妖術の廉で数千人規模の人々が処刑される事件が数回起こったという(前184年に約3千人、前182-180年に約9千人)[4]。社会不安の高まりがパニックを引き起こしたことや拷問の横行など、後のヨーロッパの魔女狩りと同様の特徴がみられる。

中世ヨーロッパでも、暴力や窃盗と並んで「呪術によって出た害」も裁きの対象となっていたが、世俗的な犯罪としての妖術には特別重い刑が科されるというわけでなく、他の犯罪と同じように被害に応じた刑が科せられていた。また、同じ呪術でも良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる白魔術は一般的に良いものとみなされていた。中世ヨーロッパの各地では、刑事裁判も民事裁判と同様に告発的訴訟手続を通じて行われており、原告と被告の当事者が対等の立場で争い、地元の有力者が参審人として慣習法に基づいて判決を提案するという形式が取られていた。告訴する側が被告の有罪を証明して裁判官に認めさせることに失敗すると、告発者の方が罰を受けなければならなかった(タリオン法)。被告の無罪を証明する方法として神判決闘が行われることもあった[注 1]。記録に残る中世の妖術裁判の事例が少ないのは、そのような訴訟手続では妖術師を裁くことが困難であったためではないか、とノーマン・コーンは論じている。一方、中世の民衆が行った妖術師に対する私刑については、年代記等に様々な事例が記録されている[6]

かつて「魔女狩り」といえば、「中世ヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派の弾圧やテンプル騎士団への迫害以降にローマ教皇庁の主導によって異端審問が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」などと語られることが多かった。しかし1970年代以降、様々な研究によってこのようなステレオタイプな見方は覆されることになった。ノーマン・コーンとリチャード・キークヘファー(Richard Kieckhefer)はそれぞれ独自に、それまで14世紀前半の南仏で大規模な魔女迫害が起こったと言われていたのは、実は19世紀の小説家ラモト=ランゴンの空想の産物を歴史家が真に受けたものにすぎない、ということを明らかにした[7]。実際には、記録に残っている最初の大規模な魔女裁判が起こったのは中世も終わりに近づいた15世紀前半のことであった[8]。異端の追及は行っていても、呪術の問題は管轄外であった異端審問官が魔女狩りと関わりを持つようになるのは、15世紀に入ってからのことである。中世のカトリック教会においては占術や呪術は取り除くべき迷信とされたが、13-14世紀の異端審問官が民衆の呪術的行為に積極的に介入することはなかった。アレクサンデル4世 (ローマ教皇)は1258年に、異端審問官が占術や呪術の件を扱うのは、それが異端であることが明らかな場合に限ると定めた[9]。また、15世紀の初期の魔女裁判においても、審問を行ったのは必ずしも異端審問官ではなく、司教裁判所や世俗裁判所が糾問主義的(=異端審問的)な裁判手続をもって執行する場合もあった。ヨーロッパ大陸では、中世から続く当事者主義的な訴訟手続は、司直が職権として訴訟を開始し判決までを取り仕切る糾問主義的な訴訟手続に取って代わられた。教会法廷の扱う魔女裁判はやがて減少し、魔女裁判の最盛期には世俗法廷で行われるものが大半となった。この時代、ドイツの一部の村では「委員会」という組織が結成され、住民を代表して魔女を告発するだけでなく、証人を尋問したり、領邦裁判所に圧力をかけたりするなどして魔女迫害を推進した。イングランドでは国王の任命した職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行った[10]
魔女狩りの展開と衰退

12世紀に始まった異端審問が本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはヴァルド派が迫害を逃れて潜伏していたアルプス西部地方(スイスヴァレー州フランスドーフィネサヴォワ)で始められた。ノーマン・コーンによれば、記録に残るものでは1428年にスイスのヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。元々この地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供を捕えて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった。孤独で社会的に疎外された魔女というイメージは当時の人々の先入見にあったものではなく、後に生まれた伝承やグリム童話によるものである[11]

また、魔女の概念は当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ感情とも結びつき、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像が作られていった。魔女の集会がユダヤ人にとって安息日を意味する「サバト」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ感情の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。『魔女に与える鉄槌』題扉

15世紀に入ると、魔女と妖術に関する書物が一種のブームとなる。たとえばニコラ・ジャキエ(英語版)の『異端の魔女の鞭』(Flagellum Haereticorum Fascinariorum, 1450年)やウルリヒ・モリトール(英語版)の『魔女と女予言者について』(De lamiis et phitonicis mulieribus, 1489年)などがあり、特に有名なものとしてドミニコ会の異端審問官であったハインリヒ・クラーマーによって書かれた『魔女に与える鉄槌』(1486/87年)がある。


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