魏志倭人伝
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『魏志倭人伝』
(ぎしわじんでん)
三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人

著者陳寿
発行日3世紀末(280年呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
ジャンル歴史
西晋
言語漢文
形態紀伝体の歴史書
前作『三国志』中の「魏書」第29巻
次作『三国志』中の「蜀書」第31巻
コード(ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08044-9
(岩波文庫)ISBN 4-00-334011-6
(講談社学術文庫)ISBN 978-4-06-292010-0
(中公新書)ISBN 978-4-12-102164-9

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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条の略称[注釈 1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた[1]
概要

『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく[注釈 2]、『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している[2]

当時の(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬台国を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。

景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、これが事実であれば、拝謁した皇帝は曹叡ということになるが、この遣使の年は景初3年であるという異説(梁書倭国伝など)もあり、その場合には使者が拝謁したのは曹芳ということになる[3]

しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないこと[4]から、邪馬台国に関する論争[5]の原因になっている。また、一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者が一定数いる。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解[6]を述べている。宝賀寿男は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』は『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している[7]。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、『三国志』の「魏書」と同様に魏志倭人伝は著者である陳寿が実際に朝鮮半島や日本に訪問して書かれた文献ではなく、あくまで噂や朝鮮半島や日本に訪問したことがある人々からの聞伝えで書かれていて信憑性には疑問があると述べている。また『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている[8]
版本

現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻本」が最善本とされているが、後述のように異論もある。この刻本を「紹煕本」(しょうきぼん)という。

「紹煕本」を魏志倭人伝を含む正史『三国志』の最善本と鑑定したのは正史の原文校訂に尽力した民国時代の学者・張元済である。張は各種の版本を検討した結果、「紹煕本」は非常に優れていると提唱した。清朝の武英殿版正史の校訂を行った考証学者の本文研究とも合致しているというのがその理由である。[9]

この説には安本美典らによる批判がある。安本らは「紹煕本」を最善のテキストだと認めない。安本らは「紹煕本」を民間の粗雑な刻本(坊刻本)とし、しかも刊行年代は慶元年間のものだとしている。安本らはもう一つの善本である南宋紹興本を評価している。[10]

「紹煕本」を元に張元済が刊行したのが百衲本(ひゃくのうぼん)である。ただし、張は「紹煕本」の欠けている三巻[注釈 3]をもう一つの善本である南宋紹興刻本で補っている。[11]

活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』(藤堂, 竹田 & 影山 2010)がある。

「倭人伝」は、百衲本の影印版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されて[12]いる。

なお、版本・引用文ごとの主な異同を記せば以下のようになる。細かい異同はもっと多いが、論争になっている箇所のみをあげた。引用文については、魏志からの引用であることが明記されているものに限った。

紹煕本紹興本隋書太平御覧梁書北史
對海國對馬國對馬國
投馬國投馬國於投馬國投馬國
邪馬壹國邪馬壹國邪馬臺國耶馬臺國祁馬臺國邪馬臺國
郡支國都支國
壹與壹與臺挙臺與臺與

倭と魏の関係
卑弥呼と壹與

元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。

卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。

卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が徇葬した。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族、または宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
魏・晋との外交

景初2年6月(
238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[注釈 4]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。

景初3年1月1日に12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝(曹叡)が死去。斉王が次の皇帝となった。


正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。

正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。

正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの?との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。


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