鬼怒_(軽巡洋艦)
[Wikipedia|▼Menu]

鬼怒
1931年の鬼怒
基本情報
建造所川崎造船所[1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種二等巡洋艦(軽巡洋艦)
級名長良型
艦歴
発注1920年1918年度八六艦隊計画)
起工1921年1月17日[1]
進水1922年5月29日[1]
竣工1922年11月10日[1]
最期1944年10月26日沈没
除籍1944年12月20日
要目
基準排水量5,170英トン
常備排水量5,570英トン
全長162.15 m
最大幅14.17 m
吃水4.80 m
出力90,000馬力
速力36.0ノット
乗員竣工時定員450名[2]
兵装新造時
50口径三年式14cm単装砲 7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲 2基2門
三年式6.5mm機銃 2挺
八年式連装魚雷発射管 4基8門(魚雷16本)
飛行機滑走台 1基
飛行機 1機
機雷 48個
改装後
50口径三年式14cm単装砲 5基5門
40口径八九式12.7cm連装高角砲 1基2門
九六式25mm3連装機銃 4基12挺
九六式25mm連装機銃 2基4挺
九六式25mm単装機銃 8挺
九三式13mm連装機銃 1基2挺
八年式61cm連装魚雷発射管 4基8門
爆雷投下軌条 2基
二一号電探 1基
テンプレートを表示

鬼怒(きぬ)は、日本海軍軽巡洋艦長良型の5番艦である。艦名は川の名で、鬼怒川から名づけられた[3]
艦歴

鬼怒は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として1922年(大正11年)11月に神戸川崎造船所で完成した。

1922年12月、第二艦隊 (日本海軍)第五戦隊に編入され、その後、第一艦隊第三戦隊、第二艦隊第二水雷戦隊に属した。

1930年10月、完成したばかりの呉式二号二型射出機が、艦艇では初めて鬼怒に装備されて射出実験が繰り返された。この呉式二号二型は小型機用の火薬式射出機であり、後に呉式二号三型改一として実用化され5500トン型軽巡各艦に装備されることとなる射出機の原型である。冒頭の写真はこの呉式二号二型射出機を装備していた時点の写真である。1年間の実験ののち、1931年10月に同装置は神通に移設された。

1934年4月、5番主砲と6番主砲の間に呉式二号三型改一射出機を装備し艦載機を水上機1機とする。不要となった滑走台跡に九三式13mm4連装機銃1基を装備(のちに滑走台は完全に撤去され改めて艦橋中央前部に機銃台が設けられて九三式13mm4連装機銃はここに設置された)。

1934年11月から一年間、海軍機関学校の練習艦となった。

1935年11月、第二艦隊第二潜水戦隊(司令官大和田芳之介少将)の旗艦となり、翌年12月、第一艦隊第八戦隊に編入された。

1937年8月、支那事変日中戦争)のため中国沿岸に出動した。

1941年4月、連合艦隊附属第四潜水戦隊(司令官吉富説三少将)の旗艦となる。
太平洋戦争

太平洋戦争開戦時は「鬼怒」(旗艦)、第十八潜水隊、第十九潜水隊、第二十一潜水隊、特設潜水母艦「名古屋丸」からなる第四潜水戦隊は第五潜水戦隊、第六潜水戦隊第十三潜水隊とともに馬来部隊の潜水部隊(指揮官は第四潜水戦隊司令官吉富説三少将)を構成していた[4]。修理中であった第二十一潜水隊を除く第四潜水戦隊は11月20日に広島湾から出航し、11月26日に三亞に着いた[4]。第十八潜水隊と第十九潜水隊は12月1日に三亞から出撃し、「鬼怒」も12月4日に出撃した[5]。「鬼怒」と12月5日に出撃した第五水雷戦隊旗艦「由良」はともにプロコンドル島南方で行動した[6]

12月8日に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を中心とするイギリス艦隊がシンガポールから出撃し、12月9日に潜水艦「伊号第百六十五潜水艦」がこれを発見した[7]。「鬼怒」は九四式水偵を発艦させ、この機はイギリス艦隊を発見した[8]。馬来部隊指揮官小沢治三郎中将は水上部隊を集結させて夜戦を行なおうとし、第三水雷戦隊と軽巡洋艦「鬼怒」、「由良」の第七戦隊への合流を命じた[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:50 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef