鬼怒川
[Wikipedia|▼Menu]

鬼怒川

水系一級水系 利根川
種別一級河川
延長176.7[1] km
平均流量-- m³/s
流域面積1,760.6[1] km²
水源鬼怒沼(栃木県日光市
水源の標高2,040m[1] m
河口・合流先利根川(茨城県守谷市
流域 日本 栃木県茨城県
テンプレートを表示

鬼怒川(きぬがわ)は、関東平野東部をからへと流れ利根川に合流する一級河川である。全長176.7kmで、利根川の支流の中で最も長い[2][3]

江戸時代以前、鬼怒川は常陸川などと共に香取海太平洋銚子でつながる内海)へ注ぐ鬼怒川水系の本流であったが、利根川東遷されそれまでの常陸川の河道および太平洋までを流れることになったに伴い、鬼怒川も利根川に注ぐ支流河川とされた。

名称は、当初は毛野国栃木県群馬県域の古地名)を流れる川として「毛野川(毛野河)」と記されたが、中世から近世には「衣川(衣河)」や「絹川(絹河)」の字があてられ、明治初期から「鬼怒川」の文字があてられるようになった[4][5]

上流域にある鬼怒川温泉の略称としても使用される。
地理

日光国立公園内にある栃木県日光市鬼怒沼奥鬼怒)に源を発し、湯西川・男鹿川・大谷川を合わせ、塩谷町南端・さくら市宇都宮市の境界部・高根沢町・宇都宮市の境界部・宇都宮市東部・上三川町東部・上三川町・真岡市の境界部・真岡市西部・下野市東南端・真岡市・小山市の境界部を流れ田川と合流し、茨城県との県境を成して茨城県筑西市に入り、筑西市と結城市の境界部・結城郡八千代町下妻市の境界部・下妻市南西部・常総市・常総市とつくばみらい市の境界部・守谷市を流れ、茨城県と千葉県の境界部に達し、茨城県守谷市と千葉県柏市・同野田市の境界部で利根川合流する[2][3][6][7]

鬼怒川の上流部は火山地帯で、深い山間の渓谷を流れる。深さもあって川の色は深緑色を呈し、川辺には白い大きな岩も目立つ。また流域には奥鬼怒温泉郷女夫渕温泉川俣温泉湯西川温泉川治温泉鬼怒川温泉日光湯元温泉といった温泉地が点在する[1][2][6][7]

鬼怒川中流部は中小の白い石が目立つ広い河原、かつての氾濫原の中をゆったりと流れ、土手沿いには雑木林杉林松林などがあって治水されており草深い。深さはあまり無く川の色は水色ないし濃紺色を呈する。夏季には漁で賑わい、川面には個人の釣り人が友釣りする姿や、観光やなで遊ぶ観光客の姿が夏の風物詩となっている。流域には多くの親水公園運動公園が整備され、四季折々のスポーツが楽しめる。また、塩谷町から宇都宮市にかけては多雨期に増水する鬼怒川の豊富な水量を別つため、放水路と用水路の役割を有する西鬼怒川に分流される。西鬼怒川は佐貫頭首工および逆木サイフォンで取水され根川用水・西鬼怒発電所を経て西鬼怒川となり、御用川を分流し、白沢河原を経て宇都宮市岡本と高根沢町宝積寺の境界部で鬼怒川本流に合流する。また宇河地区(宇都宮、河内郡地区)に広く上水を供給する松田新田浄水場も鬼怒川高間木取水堰から取水している[2][6][7][8][9][10][11]

鬼怒川水系の豊富で上質な水は栃木県の県都宇都宮市ほか諸都市の水源となっており、上水灌漑用水として利用され、市民の都市生活および流域の米産やほか農業や工業にも広く利用されている。宇都宮市で盛んな飲料製造業は鬼怒川の清水に拠るものである[1][12]
歴史江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川水系常総市・つくばみらい市境より守谷市方向を臨む。鬼怒川。奥に羽黒山男体山を望む羽黒山(写真中央)近くを流れる鬼怒川

現在の鬼怒川は利根川の支流となっているが、江戸時代初期以前は太平洋へ注ぐ東関東の本流の水系だった。

鬼怒川は約3万年前は高見沢・協和台地・桜川霞ヶ浦(西浦)を通る流路で太平洋に至る河谷を作った。関東造盆地運動が進んだ結果、約2万年前から龍ケ崎の南を通り常陸川と合流する現在に近い流路となり同じく太平洋へ至る長く深い河谷を形成した。縄文海進時には下妻付近まで入り江が湾入し(常陸川、飯沼川へも同様)、太平洋につながる古鬼怒湾(香取海)を形成した。

縄文時代以降、鬼怒川は常陸川と共に古鬼怒湾(香取海)へ注ぎ、その湾の河谷は土砂で次第に埋まり沖積層の陸地となった[13][14]。古代の鬼怒川の中流流路は下総国常陸国の境界とされ、現在の常総市つくば市の境界付近を南下し、香取海へ流れた。

中世頃まで香取海は完全には淡水化せず、鬼怒川の香取海への河口は現在の河内町から稲敷市柴崎付近だった。また現在の水海道付近より河口に至る鬼怒川・小貝川下流域は広大な湿地帯氾濫原)が形成されていた[15]。805年に河口にも近いこの氾濫原の東南端(利根町龍ケ崎市の間)で鬼怒川を渡船する経路が下総国から常陸国へ入る東海道の新経路として整備された[16]

江戸時代初期の1629年に鬼怒川を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルに亘って開削し河道を移動させ、常陸川との合流点を約30キロメートル上流へ移動させた。

一方の利根川渡良瀬川は元は江戸湾(現在の東京湾)に注いだが、江戸時代初期に瀬替え(東遷)させ、鬼怒川水系の常陸川へつなぎ、元来の鬼怒川下流河道(香取海)には利根川・渡良瀬川の水も流れることとなった。鬼怒川はそれに伴い支流の扱いとなり、利根川(常陸川)合流点までとなった(現在も鬼怒川水系は利根川水系に組み込まれている[2][3][5])。
名称

鬼怒川は、古く『常陸国風土記』には「毛野河」と見え、常陸国各郡の境界を成す旨が記されている[4]。また『続日本紀神護景雲2年(768年)条には、古来「毛野川」は下総国常陸国の境界を成すと見える[4]平安時代の文献(『延喜式』兵部式、『倭名類聚抄』など)には「河内郡衣川」や「下野国驛家衣川」などと見え、江戸時代の古地図にも「衣川」とある。明治時代に編纂された『日本地誌提要』では「絹川」とされるほか、『下野國誌』には「衣川」と見えるように、「きぬがわ」はかつて「衣川」「絹川」と表記されていた。「きぬ」という音については、この地方の豪族の紀氏に因む「紀の川」の転訛説もある[2][5]

現在に見る「鬼怒川」という表記は、一説に明治9年(1876年)頃以降とされ[17][18]、明治以降の『古事類苑』など諸文献に見られる。
水害の歴史

1723年享保8年) - 五十里洪水[19]

1885年明治18年) - 洪水[19]

1889年(明治22年) - 洪水[19][20]

1890年(明治23年) - 洪水[20]

1896年(明治29年) - 洪水[19]

1902年(明治35年) - 洪水[19][20]

1910年(明治43年) - 洪水、鬼怒川改修計画の契機となった[19]

1914年大正3年) - 洪水[20]

1935年昭和10年)9月 - 台風に伴う温暖前線の活発化による豪雨洪水[21]

1938年(昭和13年)9月 - 台風による豪雨で洪水[21]

1947年(昭和22年)9月 - カスリーン台風による豪雨で洪水[21]

1949年(昭和24年)8月 - キティ台風による豪雨で洪水[21]

1982年(昭和57年)9月 - 台風に伴う秋雨前線の活発化による豪雨で洪水[21]

2002年平成14年)7月 - 台風6号による豪雨で洪水[21]

2015年(平成27年)9月 - 台風18号から変わった温帯低気圧による豪雨で増水し、常総市内で越流、破堤[22]

治水五十里湖

1683年天和3年)の日光地震により鬼怒川支流の男鹿川が現在の海尻橋付近で土砂に堰き止められ自然湖・五十里湖が出現したという記録が日光東照宮の輪番記録に残されている。この堰き止め湖は高さ70mで湛水面積は後に五十里ダム建造により生まれた「五十里湖」より大きく、40年間存在していた。この間会津藩により洪水吐き工事が行われたがうまくいかず、その間男鹿川沿いの会津西街道は通行不能になり会津藩3代藩主・松平正容によって1695年(元禄8年)に代替街道として会津中街道が整備された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef