鬼太鼓座
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おんでこざ
鬼太鼓座
鬼太鼓座の大太鼓(3尺8寸、重さ350kg)
基本情報
出身地 日本新潟県佐渡市
ジャンル創作和太鼓現代音楽
担当楽器和太鼓
活動期間1969年 - 1979年
1979年 - 1981年
1981年 - 2000年
2000年 - 2006年
2006年 -2012年
2012年 -
公式サイト ⇒公式ウェブサイト

鬼太鼓座(おんでこざ)は、1971年に結成されたプロの創作和太鼓集団である。組太鼓を「コンサート形式(舞台興行)で演奏する」という新しい太鼓演奏スタイルを全国に広めた最初期のグループ。結成当初は佐渡を本拠として共同生活を送り、徹底した走り込み、褌姿での演奏、現代音楽の採用といった新奇な手法で国内外で注目され、現代和太鼓ブームの火付け役となった[1]。現在は埼玉県秩父郡東秩父村および静岡県富士市を拠点に活動している。
概要

学生運動により大学中退後、民俗学者宮本常一の影響で日本放浪をしていた田耕(でんたがやす、本名・田尻耕三)の発案により、佐渡に「北前船により広がった文化を再構築する」ための四年制大学『日本海大学』と、日本の民俗芸能や工芸を学ぶ『職人村』」設立の資金獲得を目的に結成され、当初は太鼓をはじめとした日本の伝統芸能を海外で演奏することで資金を獲得して7年後の大学設立をもって解散する予定だった[1][2][3]。本拠地となった佐渡では、現地の郷土芸能「鬼太鼓」を「おんでこ」と呼ぶため、「鬼太鼓座(おんでこざ)」と名付けた。結成当時は、宮本常一のほか、多数の同世代の文化人や活動家・芸術家などが田耕に協力・支援した。

練習にマラソンを取り入れ、1975年にボストンマラソンに参加、全員完走後、ゴール地点で大太鼓を披露するパフォーマンスで話題となる。ボストン交響楽団指揮者だった小沢征爾に誘われて共演し、以降ほぼ毎年欧米を中心とした海外公演を行なう。

田耕が「わらび座」という民族歌劇団に一時期関係していたこともあり、鬼太鼓座の演目は日本古来の民族伝統芸能的傾向が強く、「屋台囃子」や「大太鼓」といった代表曲のほか、小澤に紹介された現代音楽家・石井真木が鬼太鼓座のために書き下ろした新打法による和太鼓曲も手がけ、舞台芸術としての和太鼓を飛躍させた[4][5]。1981年に分裂し、鬼太鼓座は長崎県に移り、佐渡に残った座員により「鼓童」が結成された。

1990年から3年に及ぶアメリカ大陸一周マラソンツアー以降、鬼太鼓座はより独創的なパフォーマンスを展開していく。「アジアのオーケストラを作る」という田の発想の元、二胡、洋琴などのゲストを多用する期間が2000年頃まで続いた。
太鼓指導

田耕の発案により全国より集まった若者達は、最初は太鼓とは無縁の素人ばかりであり、この初発の太鼓の右左分からない集団に太鼓を指導したのは、当時の舞台興行太鼓の先駆け的存在で、日本最初のプロ和太鼓奏者である高山正行が担当した。

ただ当初の大太鼓は現在の形とは違い、「太鼓の右側に立って左を利き腕に斜め打ち」という福井の伝統スタイルをそのまま取り入れていたが、当時に大太鼓を受け持っていた林英哲が後に、現在の「太鼓の正面から打つ」スタンスに改良した。

鬼太鼓座に奇抜さを求めた田耕に、座って太鼓を叩くことを高山正行が提言。これが屋台囃子を始めるきっかけとなり、秩父埼玉の現地保存会で本格的な指導を受ける。
分裂と新生鬼太鼓座

ボストンマラソン完走後、そのまま舞台に上がり三尺八寸の大太鼓演奏でデビューをかざった鬼太鼓座はボストンの地元マスコミに大きく取り上げられ、以降、日本国内外の公演も順調に進んでいったが、その後リーダーの田耕とメンバーとの間で意見やポリシーの相違が次第に表面化した。

そして、その亀裂が決定的になったのは、映画『ざ・鬼太鼓座』の制作である。田耕は当時の鬼太鼓座を記録に残したいと映画制作を発案、自ら資金を調達しほぼ独断で企画を進め、松竹朝日放送の協力を取り付け、3年の歳月をかけて映画を完成させる。しかし、実際に完成した映画は田耕の構想していた物とは全く異なった物であり、映画の内容を巡って、田耕は制作サイドと激しく対立し、結果的にこの映画はお蔵入りとなる(以降上映会などでの上映を除いて一般公開はされず、ソフト化もされてこなかったが、2017年1月、加藤泰監督生誕100年企画として再上映され、翌月ソフトが販売された)。


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