金砕棒(かなさいぼう)は、日本の打棒系武器の一種。南北朝時代に現れたと考えられ、初期のものは櫟[要曖昧さ回避]、栗、樫などの硬い木を1.5 - 2メートル程度[2]の八角棒に整形したものに「星」と呼ばれる正方形あるいは菱形の四角推型の鋲と箍で補強したものであったが、後に「蛭金物(ひるかなもの:帯状の板金)」を巻き付たり長覆輪(ながふくりん:鉄板で覆う)といった鉄板で覆って貼り付け補強した拵え(こしらえ)となり(画像-1)、さらに後世に完全な鉄製(時代を経るごとに鋳物製から鍛鉄製へと移行)となった(画像-2、画像-3)。 日本の合戦での装備は、古来、重装備である。これは騎馬による戦いが目的であったため、装備が重くても影響が少なかったことが要因である。そのため、太刀で斬ることはおろか、槍といった突きを主眼としたものであっても、鎧を貫くのは非常に困難であった[3](ただし、槍で突かれると貫通する場合はある[4])。したがって、戦では鎧のつなぎ目を斬る戦法(鎧は「動く」という行動を執る以上、肩などの関節部には隙間があるため、そこを狙う)や、兜を跳ねて首を狙うといった戦法が採られた[5][6]。 鎧を断ち切ることは非常に困難であるが、叩くといった行為に対しては耐性は低い。南北朝時代になって多少は軽装備となったものの、依然として斬るといった行為は困難であったため、金砕棒のような打撃に特化した武器が登場した[7](ただし、日本の鎧では手足をあまり守れなかった[8])。 金砕棒は叩くことに特化した武器であり、頭を叩かれればもちろんのこと、胴であっても打ち付けられれば相当の衝撃であり、その衝撃で怯んだときに組み合って首を獲る、そのまま叩き殺す(骨を粉砕する、内臓を潰すなど)といった戦い方が可能である。ただし、六角棒か八角棒を鉄板で包んだもの、鉄の筋金を打ち付けたものは普通は全長212センチメートル前後、最も長いもので360センチメートル前後、完全鉄製のものは全長150センチメートル前後という大きさから非常に重かったため、筋力に優れた者でなければ使いこなせないという弱点があった[9]。 なお、実戦で使用されたことを窺わせるものとしては、戦国大名の最上義光が合戦で用いている様子を描いた屏風絵[10]が残されている[11]。また、その丈夫さと重量を生かし、砦の関門を破るための簡易的な破城槌としても利用された[9]。 金砕棒は大太刀や大薙刀、鉞と同じく扱いには腕力を必要とする武器であるが[9][12]、それらの武器と違うのは南北朝時代に流行[9]して以来、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、と長期間にわたって現役の武器であり続けたことである[13]。大太刀は南北朝時代の20数年間で流行が廃れ[14]、室町時代以降下火になり[9]、再び流行するのは安土桃山時代である[9][15][13]。大薙刀も南北朝時代の20数年間で流行が廃れ[14]、室町時代以降には小薙刀の方が主流となる[13]。鉞は南北朝時代に流行するが[9]、戦場での利用はあまり多くなく[16]、南北朝時代以降で再び戦場で武器として利用されるのは安土桃山時代である[13]。 日本の諺(ことわざ)「鬼に金棒(おに に かなぼう)」で知られる通俗的イメージの鬼が持つ金棒は、金砕棒を元にしたものであり、15世紀末前後成立の『鴉鷺合戦物語』に、「鬼に金撮[17]棒成べし」との記述があり、中世軍記物に明記されている。『鴉鷺物語』の記述からも、15世紀時点では、まだ略されておらず、砕の字も統一されていないことがわかる。諺としての「鬼に金棒」の初見は、『毛吹草』(1645年刊)であり(鈴木棠三 広田栄太郎 編 『故事ことわざ辞典』 東京堂出版 1968年(初版1956年) p.158)、似た諺として、「鬼に鉄杖(てつじょう)」がある(同書 p.158)。
目次
1 概要
2 鬼に金棒
3 撮棒
4 その他
5 脚注
6 関連項目
概要
鬼に金棒