鬱陵島
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鬱陵島
定期航空機から臨む鬱陵島。
島の南西方向より撮影。
所在地 韓国 慶尚北道 鬱陵郡
所在海域日本海
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度30分0秒 東経130度52分0秒 / 北緯37.50000度 東経130.86667度 / 37.50000; 130.86667座標: 北緯37度30分0秒 東経130度52分0秒 / 北緯37.50000度 東経130.86667度 / 37.50000; 130.86667
面積72.82 km²
最高標高984 m
最高峰聖人峯
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
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鬱陵島
各種表記
ハングル:???
漢字:鬱陵島
発音:ウルルンド
日本語読み:うつりょうとう
RR式:Ulleung-do
MR式:Ull?ngdo
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鬱陵島の位置

鬱陵島(ウルルンとう、ウルルンド[1]: ???)は、日本海に位置し、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する火山島である。
概要

朝鮮半島の竹辺(蔚珍郡)から東に140 km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、???)で標高984 m。人口は9128人(2020)[2]。面積は73.150 km2[3]で耕地面積は畑が12.40 km2、水田が0.5 km2、林野55.5 km2。

島全体が火山帯のため海岸の多くが絶壁(西南と東南の海岸は90 mの崖)であり港湾開発は難しいが、2018年末に全長44.2 kmの一周道路が開通(路面は一部工事中)した。島内のほとんどの道路は制限時速40 kmでネスジョントンネル区間のみ時速60 kmとなっている。

平地が少なく傾斜が激しい山道で積雪も多いため、ほとんどのタクシーがSUVである。また、駐車場が不足しており、いつでも動かせるように停車中でも車内にキーを置く習慣(車を持ち出せず盗難の恐れがないため)がある。2019年の車両数は5840台で内243台が電気自動車となっている。鬱陵郡は電気自動車の購入に補助金1900万ウォン(うち国費900万)を支給しており、毎年100台分の予算を確保しつつ2029年までに自動車の20%を電気自動車とする計画である[4]

韓国で最も嵐日数が多く、豪雪地帯である。代表的な植生は香木・白樺。ハマナス・島野菊など[5]。主島の他、観音島、竹嶼と複数の岩島からなる。
産業

第一次産業(農業・漁業)が中心で、二次産業は非常に少ない。他、観光業が比較的発達している[5]。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している[要出典]。近年はイカの不漁や自然災害、教育環境を理由に人口は減少傾向にある[5][6][2]
産物

主な農作物は、ジャガイモ・トウモロコシ・野菜・豆・栗・かぼちゃ、畜産は韓牛(ハーブ牛、鬱陵薬牛?ウルルンヤクソ)・ヤギなど、海産は海苔・わかめ・ムール貝・イカ・サンマ・スケトウダラ・フジツボなど。得にイカは東南アジアに輸出されるが漁獲高が減少[5]している。他野草として、シャク、ギョウジャニンニク(??[7])、ゼンマイ、ヤマブキショウ、シラヤマギク、ゴマナ、ツルニンジンなどが特産[8]。特に栽培ハーブとしてタケシマシシウド(別名竹島菜 セリ科の植物、韓国名???)[9]は輸出もされている[5]
かぼちゃ飴

陸地のかぼちゃより果肉が厚く重い鬱陵島かぼちゃを30%用い、トウモロコシを蒸して袋に入れ絞ったものと、蒸したかぼちゃ、麦芽を入れて5時間煮る。蜜状になったらコーンスターチを加え粘度を調整し板状に成型し固める[10]
名称

江戸期から明治10年代までの日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治中期から現代の竹島との名称の入れ替わりにより「松島」とも呼ばれた[11][12]。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼(日本が領有権を主張する竹島とは異なる)、他に観光地となっている観音島などがある。また、島全体が豪雪地帯となっている。鬱陵島の衛星写真(上が北)
歴史

三国史記によると、鬱陵島は于山国として独立していたが、512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。その後、女真が滅びると朝鮮(高麗)の支配下となったが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者も本土より多数移住した。朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。
うるまの島

平安時代の『権記』、『本朝麗藻』などに、寛弘元年(1004年)「しらぎのうるまの島の人」の因幡漂着と送還が記述されている。この島は本朝麗藻で「迂陵島」とされ、現在の鬱陵島であることは文献史学、古典文学などの研究者には定説である。日本語の通じない異邦人の到来は当時の京都でも話題となり、歌人藤原公任が題材として歌を詠み千載和歌集に載せられたことで後の世にも知られた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}[詞書]うるまのしまの人のここにはなたれきて、ここの人のものいふをききしらてなんあるといふころ、返ことせぬ女につかはしける

(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)

おほつかなうるまの島の人なれやわかことのはをしらぬかほなる(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)—千載和歌集 巻第十一 六五七

これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、室町時代には、当時の琉球国室町幕府に遣使し、本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄島を指すようになった。あくまでも日本本土の文人たちによるもので、当の琉球人の知名度はなかった呼び名であるが、明治時代以降の沖縄県では県民にも沖縄の雅称として認められる名となった。現代の沖縄県で「うるま」の語源は沖縄方言の「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、明治以降に後付けされた民間語源に過ぎない[13][14]
倭寇対策としての「空島」政策

13世紀から16世紀にかけて「倭寇」(朝鮮本土や中国沿岸部を劫掠した海賊)は鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装い(仮倭という[15])、半島本土を襲うことがあった。

李氏朝鮮(1392年?1897年)は成立前後より、これを脅威とみなし、1417年太宗は対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた(いわゆる「空島政策」)。

この後、1881年まで460年以上に渡って同島は公式には無人島となった(しかし朝鮮から密航する者は後をたたなかった)。
米子商人の鬱陵島拝領江戸幕府から米子商人にあたえられた鬱陵島渡海許可証(1618年)鳥取藩作成の『竹嶋之図』(1724年)  左が「竹島」(現、鬱陵島)、中央が「松島」(現、竹島)、右下が隠岐諸島 江戸時代の1618年 - 1697年、米子の商人が江戸幕府の許可の下、隠岐、現在の竹島(松島)を経由し、鬱陵島を開発していた。


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