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出典検索?: "高麗丸"
高麗丸
「満州丸」時代
基本情報
船種貨客船
クラス高麗丸型貨客船
船籍 大日本帝国
所有者鉄道省
北日本汽船
日本海汽船
運用者 鉄道省
北日本汽船
日本海汽船
建造所川崎造船所
母港東京港/東京都
小樽港/北海道[要出典]
姉妹船新羅丸
信号符字MFKL→JKLD[要出典]
IMO番号15985(※船舶番号)[要出典]
改名高麗丸→満州丸
就航期間11,562日
経歴
起工1912年7月[1]
進水1912年10月18日[1]
竣工1913年1月14日[1]
就航1913年1月
最後1944年9月9日被雷沈没
要目
総トン数3028.51トン[2]
全長101.80m[2]
垂線間長97.53m[2]
幅13.11m[2]
深さ9.14m[2]
高さ21.64m(水面からマスト最上端まで)
16.15m(水面から煙突最上端まで)
満載喫水5.18m[2]
ボイラー船用スコッチボイラー4基[3]
主機関三連成往復動汽機2基[3]
推進器4翼一体式2基[3]
出力4677IHP[3]
最大速力16.119ノット[3]
航海速力13ノット[1]
航続距離12.5ノットで2,500海里[要出典]
旅客定員一等:3名
二等:83名
三等:501名[4]
乗組員87[4]
高さは米海軍識別表[5]より(フィート表記)。
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高麗丸(こままる[6])は、鉄道省の関釜航路・稚泊航路の鉄道連絡船。高麗丸型の第1船である。姉妹船には新羅丸がある。後に民間に売却され、満州丸として北鮮航路へ就航している。
船名は朝鮮半島にあった国家、高麗に由来する。 関釜連絡船には、開設以来、壱岐丸と対馬丸が就航していたが、1912年に新橋 - 下関の1・2等特別急行列車、及び釜山 - 奉天の直通列車が運行開始すると、新橋から関釜航路経由で奉天へ向かうルートが完成し、利用者増加に伴う関釜航路の大型船が必要となった。 2隻の新造船(高麗型)は1912年に川崎造船所で建造が開始され、第1船の高麗丸が1913年1月、第2船の新羅丸は1913年3月に就航する。 機関が故障しても帆走できるようにマストが設置されていた。内装では壱岐丸と対馬丸で不評であった多段ベッドを廃止し、客室を畳敷きの広間にするなど、改良が行われている。 高麗丸は1913年から関釜航路で運行される。1920年7?9月には不通となった京釜線の代替として、釜山 - 麗水 - 木浦の航路で物資を輸送している他、1923年9月1日、関東大震災により東海道本線東京 - 三島間が不通となったさい、同年9月7日から10月28日まで一般客、被災者、救援物資の海上輸送に従事している。 1931年5月14日、「高麗丸」は「壱岐丸」が退き「亜庭丸」の一隻運航となっていた稚泊航路に転属となった[7]。「高麗丸」は冬季運航はできず、運航期間は1931年6月2日から1932年1月14日までと、1932年4月から10月30日までであった[8]。その後は「宗谷丸」が就航するため函館で係船された[9]。 1933年3月29日、北日本汽船 太平洋戦争中も満州丸は軍の徴用を受けず民需用の商船として運航されたが、1943年7月12日付で、民間商船のまま乗員は海軍軍属として扱われる海軍指定船に指定されている[11]。1944年8月4日には軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍臨時配当船となった。 同年9月9日午前3時19分、フィリピンサブタン島の西約130km付近.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯19度45分 東経120度56分 / 北緯19.750度 東経120.933度 / 19.750; 120.933
建造
運用
連絡船
北鮮航路
沈没