高須洋介
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高須 洋介味全ドラゴンズ 1軍打撃コーチ #70
楽天選手時代
(2011年3月9日、阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地佐賀県伊万里市
生年月日 (1976-02-09) 1976年2月9日(48歳)
身長
体重170 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手三塁手遊撃手
プロ入り1997年 ドラフト2位(逆指名)
初出場NPB / 1998年10月3日
最終出場NPB / 2013年6月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


金沢高等学校

青山学院大学

近鉄バファローズ
大阪近鉄バファローズ
(1998 - 2004)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2013)

新潟アルビレックスBC (2014)

コーチ歴


新潟アルビレックスBC (2014)

横浜DeNAベイスターズ (2015 - 2017)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2018 - 2019)

味全ドラゴンズ(2020 - )

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高須 洋介(たかす ようすけ、1976年2月9日 - )は、佐賀県伊万里市出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)、コーチ野球解説者
経歴
プロ入り前

佐賀県で生まれ、幼稚園からは名古屋市名東区上社に移る。名古屋市立猪高小学校に進学し、5年生の時に部活で本格的に野球を始める[1]名古屋市立猪高中学校では中心選手として投手三塁手を兼任[1]、県大会3位の好成績を収めた。中学3年途中で石川県金沢市に転居。

高校は金沢高校に進学。1993年の3年時は第65回選抜高等学校野球大会第75回全国高等学校野球選手権大会に連続出場[1]。夏の甲子園では後にチームメイトとなる山村宏樹甲府工)と対戦したが、4打数無安打に終わった。

その後青山学院大学に進学。1年次から二塁手でレギュラー[1]。3年間、1学年上の井口忠仁と二遊間を組む。井口卒業後は遊撃手、三塁手も務める。井口の他、1学年上には澤崎俊和清水将海倉野信次、2学年上に坪井智哉らがおり、各大会で優勝を収め黄金時代を築いた。

東都大学野球リーグ通算91試合出場、320打数94安打、打率.294、1本塁打、29打点。1995年秋季と1996年春季のリーグで2季連続首位打者を獲得した[1]。ベストナイン3回受賞。二塁・遊撃・三塁の各ポジションで受賞しており、内野3ポジションでベストナイン獲得はリーグ史上初の快挙。

1997年日米大学野球でMVP獲得。5試合中2試合で本塁打を放つなどの活躍でチームの優勝に貢献。1997年のIBAFインターコンチネンタルカップではベストナインに選出された。

1997年のドラフト会議近鉄バファローズから2位指名を受け入団[1]背番号は「4」をもらい、同番号の前任者で引退した大石大二郎の後継者として期待をかけられる。
近鉄時代

1998年、入団1年目。開幕一軍を果たすが、当時の正二塁手水口栄二の壁は厚く3試合の出場にとどまる。2年目の1999年は守備と犠牲バントを認められ116試合に出場。しかしオフに右肘靱帯再建手術を受け、翌1年はリハビリに費やす[1]。復帰後も後遺症に悩まされ入団3年目、4年目の出場は一桁台にまで落ち一時期プロをあきらめかける。入団5年目から楽天へ移籍するまでの3年間は、再びポジション争いに参戦したが定位置確保とはならなかった。

2004年シーズンオフ、選手分配ドラフトを経て東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。このオフには的山哲也と共に視力の矯正手術も受ける。また、楽天移籍を転機に、打撃に対する考え方を180度変え、バッティングフォーム他さまざまな部分を見直す[2]
楽天時代

2005年、球団初試合となる3月26日の千葉ロッテマリーンズ戦に「2番・二塁手」としてスタメン出場。1回に球団初安打、3回には球団初二塁打を打ち球団初得点を記録する。以後も田尾安志監督に指名され、酒井忠晴大島公一を抑えて二塁手のレギュラーを獲得する。しかし夏場に扁桃炎による発熱やアキレス腱痛などの故障で戦線離脱したため、出場数は82試合となる。

2006年、腰痛の影響で出遅れ開幕一軍ならず。4月4日の西武戦で一軍登録後、4試合連続でタイムリーを放つ。以後、2番セカンドとして定着、離脱者が増えた8月からは3番にも座った。最終的に、リーグトップの得点圏打率(.378)、二塁手部門守備率1位(.992)、出塁率5位(.373)などの好成績を残し、自身初の規定打席到達となった。オフには野村克也率いるイオン日米野球2006に出場した。6月10日の広島戦で小指を骨折。取材で「今でも指が完全に曲がらない」と語った[3]

2007年、プロ入り10年目となり、礒部公一に代わる第2代楽天選手会長に就任。5月には「3試合連続お立ち台」を含む5試合でヒーロー。前半戦の得点圏打率は.470と驚異的な数字にまで上昇した。シーズン終盤は怪我が重なり若手にスタメンを譲る場面も見られたが、最終的にはプロ入り後最多の130試合に出場、2年連続となるリーグトップの得点圏打率(打率.386)を記録。野村監督から勝負強さを評価されて「必殺仕事人」と命名された[4]

2008年、7月16日の日本ハム戦で球団記録を更新する16試合連続安打を打つなど、シーズン中盤までは好調を維持し、時には3番を任される時もあった。しかし守備では怪我の影響もあってやや精彩を欠き、2年連続二塁手としてのリーグ最多失策(11失策)。後半は怪我もありスタメン落ちや二軍落ちも経験する。しかし粘り強い打撃は健在で、三振は規定打席到達者中最少のわずか38個だった。


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