高雄山寺
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この項目では、京都市右京区寺院について説明しています。江戸時代以前に神社に付属しこれを管理した寺については「別当寺」をご覧ください。

神護寺

金堂への石段
所在地京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5
位置北緯35度3分18.06秒 東経135度40分15.12秒 / 北緯35.0550167度 東経135.6708667度 / 35.0550167; 135.6708667座標: 北緯35度3分18.06秒 東経135度40分15.12秒 / 北緯35.0550167度 東経135.6708667度 / 35.0550167; 135.6708667
山号高雄山
宗派高野山真言宗
寺格遺迹本山
本尊薬師如来(国宝)
創建年天長元年(824年
開基和気清麻呂
正式名高雄山 神護国祚真言寺
別称高雄神護寺
札所等仏塔古寺十八尊第七番
西国薬師四十九霊場第四十四番
神仏霊場巡拝の道 第90番
文化財木造薬師如来立像、絹本着色釈迦如来像、梵鐘ほか(国宝)
大師堂、絹本著色十二天像六曲屏風、絹本著色真言八祖像8幅ほか(重要文化財)

法人番号1130005002242
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神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。
目次

1 概要

2 歴史

2.1 神願寺と和気氏

2.2 高雄山寺

2.3 空海以後


3 伽藍

4 文化財

4.1 国宝

4.2 重要文化財


5 習俗

6 三尾

7 アクセス

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

11 外部リンク

概要

京都市街の北西、愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海東寺高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称する。寺の根本史料である「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにももっぱら「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから、本項でも「神護寺」の表記を用いる。
歴史
神願寺と和気氏 和気公霊廟

神護寺は、いずれも和気氏の私寺であったと思われる「神願寺」と「高雄山寺」という2つの寺院が天長元年(824年)に事実上合併してできた寺である。2つの前身寺院のうち、神願寺は、和気清麻呂(733 - 799)により8世紀の末頃に建てられた寺であるが、その所在地については河内二上山説、山背男山説など諸説あり、いずれも決め手を欠いている。また、山背説の中には神願寺を石清水八幡宮の源流として位置づける説もあるが、これも現時点では可能性の範囲に留まる[1]

和気清麻呂は奈良時代末期?平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した。また、僧・道鏡の皇位継承問題にからんで流罪になったことでも知られている。称徳天皇(女帝・孝謙天皇重祚)の信任が厚かった僧・道鏡は「八幡大菩薩のお告げ」により皇位を継ぐ者とされていたが、称徳天皇は神意を再確認すべく、和気清麻呂を八幡大菩薩が鎮座する九州の宇佐八幡宮へ派遣した。宇佐から戻った清麻呂は「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上した。これが道鏡の怒りにふれ、清麻呂と姉の和気広虫(法均尼)は神護景雲3年(769年)それぞれ大隅と備後へ流罪となった。道鏡が実際に皇位を望んでいたのかどうか、事件の真相には不明な部分もあるが、翌宝亀元年(770年)には、称徳天皇が死去し、天皇の信望厚かった道鏡は左遷され、入れ代わるように清麻呂と広虫は許されて都に戻ってきた。清麻呂が和気氏の私寺である神願寺の建立を願い出たのはそれから10年後の宝亀11年(780年)とも言い、少し後の延暦年間(782年?)とも言われる。神願寺という寺号は宇佐八幡の神意に基づいて建てた寺という意味である。延暦12年(793年)には「神願寺に能登国の墾田五十町が寄進された」旨の記録(「類聚国史」所収)があり、この年が神願寺建立時期の下限とされている。
高雄山寺

もう1つの前身寺院である高雄山寺(または高雄寺)は、現在の神護寺の地に古くから存在した寺院である。和気清麻呂の墓所が今の神護寺境内にあるところから、ここも和気氏ゆかりの寺院であることは確かだが、創立の時期や事情については明確でない。伝承では、洛北の鷹峯(京都市北区鷹峯)に鎮座していた愛宕権現を愛宕山に移座した際に、他のいくつかの山岳寺院とともに建立されたという。高雄山寺の歴史上の初見は延暦21年(802年)である。この年、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行った。弘仁3年(812年)には空海が高雄山寺に住し、ここで灌頂(密教の重要な儀式)を行った。この時、灌頂を受けた者の氏名を書き付けた空海自筆の名簿(灌頂歴名)が現存し国宝に指定されているが、そこにも「高雄山寺」の寺号が見える。
空海以後

天長元年(824年)の太政官符(「類聚国史」「類聚三代格」など所載)によれば、この年、神願寺と高雄山寺の寺地を「交換」し、寺号を「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」とし、この寺は定額寺(官が保護を与える一定数の私寺のこと)に列せられた。寺地の交換が行われたのは、神願寺の所在する土地に「汚穢」(けがれ)があり、仏法の道場としてふさわしくなかったからとのことである。ただし、最澄・空海の名が高名になるにつれて、和気氏の中でも両名が滞在した高雄山寺を改めて氏寺として位置づけようとした際に、既に氏寺と位置づけられていた神願寺の存在が障害になったために、「汚穢」を口実とした寺地の交換という形で氏寺の差し替えを行ったとする見方もある[1]。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味で、この寺が密教寺院であることを明確に示している。

神護寺は、空海の後、弟子の実慧真済が別当(住職)となって護持されたが、平安時代末期には衰退していた。中世、神護寺再興に力があったのは『平家物語』などで知られる武士出身の僧・文覚であった。彼は仁安3年(1168年)、神護寺に参詣するが、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒れ果てていることを嘆き、再興の勧進を始めた。その後、後白河法皇源頼朝らの援助を得て、寺の再興は進んだ。文覚自身は罪を得て対馬(隠岐とする説もある)に流され、配流先で生涯を終えたが、神護寺の再興は弟子の上覚(上覚房行慈)によって完遂された。なお、鎌倉時代に華厳宗を復興し、高山寺を中興した僧・明恵は上覚の甥で、やはり神護寺に住したことがあった。
伽藍

金堂 毘沙門堂(奥)と五大堂(手前) 大師堂(重要文化財)

周山街道の「山城高雄」バス停から清滝川を渡り、徒歩約20分、長い石段を上った先に神護寺の楼門が西を正面として建つ。楼門を入ると、山の中腹を平らに整地した境内が広がり、右手に書院、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち、その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建つ。毘沙門堂の後方には大師堂がある。五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手の一段高いところに多宝塔が建つ。境内西端には地蔵院がある。

楼門 - 清滝川畔から石段の参道を上りつめた先に建つ正門。両脇に二天像を安置する。毘沙門堂などと同様、元和9年(1623年)の建立とされる。

鐘楼 - 毘沙門堂などと同様元和9年(1623年)の再建とされる。楼造の鐘楼で、楼上に国宝の梵鐘がある。

金堂 - 楼門を入って境内奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であるが、建築年代は新しく、昭和9年(1934年)に実業家山口玄洞の寄進で建てられたものである。須弥壇中央の厨子に本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。

五大堂 - 金堂へと上る石段の下に建つ。入母屋造の三間堂。元和9年(1623年)の建築。

毘沙門堂 - 五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていた。元和9年(1623年)の建築。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)を安置する。

大師堂(重文) - 毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、?(こけら)葺きの住宅風の仏堂。


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