高雄の歴史
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高雄の歴史(たかおのれきし)では台湾高雄地区の歴史を概説する。高雄が史料に出現するのはオランダ統治時代に遡ることができる。高雄の旧称は打狗と打鼓があり、明代から清代にかけての文献には双方が使用され、高雄の名称は日本統治時代になり改称されたものである。15世紀以前、打狗は平埔族シラヤ族(Siraya)の支族であるマカタオ族(Makatao)の居住地であり、オランダ人によりTankoyaと、打狗港はTancoiaと称されていた。マカタオ語でTakauは「竹林」を意味し、「打狗」はその音訳である。現在、考古学の調査により高雄地区では7000年前には人類の活動があったと考えられている。文献に出現するのは1603年万暦31年)、明朝の将軍であった沈有容が水師を率いて澎湖・台湾に至り倭寇討伐を行った際、従軍した福建人の陳第が著した東蕃記の中に打狗嶼との名称で出現したのが初見とされる。[1]日本では、室町時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄)がなまったものと思われる。
先史文化考古遺跡の位置と古代高雄の海岸線

高雄地区で最も古い遺跡は約4700年から5200年前のものである。現在発見された遺跡は多くが古高雄湾周辺の丘陵上に位置し、寿山遺跡、龍泉寺遺跡、桃子園遺跡、左営旧城遺跡、左営遺跡、後勁遺跡、覆鼎金遺跡、鳳鼻頭などが発見されている[2]。その中でも左営旧城遺跡からは漢人系の土師器と須恵器が発見され、漢人文化との関連性が強い遺跡として注目されている。それらの遺跡により推測される先史文化は大?坑文化、牛稠子文化、大湖文化、蔦松文化、漢文化に分類され、龍泉寺遺跡は推定される年代と文献に記録されるマカタウ族の活動時期と重複し、その両者が相当に関連している可能性が指摘されている。現在発見されている遺跡は何れも開発により破壊されているものが多いが、龍泉寺遺跡は比較的完全な状態で発見されており、また鳳鼻頭遺跡や左営旧城遺跡の一部も保存状態が良好である[3][4]

遺跡から出土した遺物により、当時の古高雄湾は潟湖の状態であり、狩猟採取を中心とした生活様式であったと推測されている、しかし斧や鋤の形状の遺物も出土しており、併せて農業も行われていたとも考えられている。
鳳鼻頭遺跡(2000年から6000年前)

鳳鼻頭文化は台湾で発見された新石器文化を代表する文化であり、大陸の影響を強く受けた文化である。鳳鼻頭文化は長期にわたり継続し、多くの文化層が重複して発見されている。その分布範囲は台湾西岸中南部に分布し、高雄県林園郷の鳳鼻頭遺跡が代表的な遺跡となっており、各時期の文化特徴が鳳鼻頭遺跡により確認できることより鳳鼻頭文化と命名された。鳳鼻頭遺跡は隆起した海岸部と沖積平野に分布し、日本統治時代に発見されている。遺跡からは大?坑文化、繩紋紅陶文化、夾砂紅、灰陶文化などの異なる文化が確認され、現在台湾での重要な遺跡として位置づけられている。[5]

鳳鼻頭遺跡は下記の文化層により構成されている

大?坑文化:典型な大?式縄紋土器を使用(約4700年から5200年前)

牛?子文化:縄紋紅色土器を使用(約3500年前)。農業、漁業、狩猟の複合生活様式が確認される。

鳳鼻頭文化:貝塚と紅褐素面夾砂陶が特徴(約3500から2000年前)。農業を中心とし、人口が増大した時期。

桃子園遺跡(3000年から4500年前)

桃子園貝塚は北柴山西北の旧桃子園集落の海岸に位置し、高雄市で最初に発見された遺跡である。遺跡からは土器、石器などの遺物が出土し、貝塚及び棺廓墓葬跡も出土している。出土地層は牛稠子文化から大湖文化層にかけてであり、農業、漁業、狩猟を複合させた生活様式であったと推測されている[6]
左営旧城遺跡(400年から1300年前)

左営旧城遺跡は左営旧城南門の北側、半屏山西南端と蓮池潭西北岸の間に位置する遺跡。遺跡からは赤褐色的籠目紋、魚紋、方格紋などの土器のほか、左営貝塚と称される貝塚も発見されている。その文化は大湖文化類型及び清代の漢文化に属している。
龍泉寺遺跡(400年から2000年前)

龍泉寺遺跡は高雄寿山東側斜面の比較的に平坦な地域に位置し、高雄地区の先史文化の遺物が最も豊富に分布する遺跡である。龍泉寺遺跡は今から約400年から2000年前の蔦松文化に属している。多くの貝塚が分布しているのが特徴であり、「小渓貝塚」と総称されている[7]
平埔族?マカット族の時代(1624年以前)

今から約2000年から400年前、柴山は周囲を海に囲まれ、遠浅の地形を形成しており、当時の高雄地区にはマカット族が集落を形成していた。1944年に小川尚義[8]は、マカット族為シラヤ族の支族であり、平埔族に属していると発表した。原居は鳳山地方から淡水渓(高屏渓)流域であり、その部落は高雄一帯の山岳部及び河岸に分布し、柴山、覆鼎金、桃子園、打狗港一帯が主居住地であったが、後に屏東平原の山麓地帯(現在の屏東県新?郷内埔郷高樹郷一帯)、恒春退台東方面に進出したと述べている。『台湾府志』では「鳳山八社」の記述があり、マカット族の有力な集落として放索、阿猴、塔楼、加藤、武洛、力力、上淡水、下淡水の8社群の名称が記録されている。またこれらの居住地はパイワン族の居住地に隣接しているため、パイワン族との密接な交流があったものと考えられている。[9]

当時の高雄地区は潟湖が広がり豊富な魚介類が棲息したことから漁労採取による生活様式が誕生し、その不用物を廃棄、堆積したものが今日貝塚となって発見されている。貝塚からは動物骨格や貝殻以外に、多くの土器の破片が発掘されている。16世紀から17世紀になるとマカット族は中国や日本の倭寇の攻撃を受けるようになり、倭寇の侵入を防止するために住居の周囲に竹林を設けるようになった。竹林は防御以外に衣食住にも影響を与え、当時の高雄地区には竹林が広がっていた。その「竹林」を表す平埔語の「Takou」が?南語により「打狗」と翻訳され、それが高雄の旧称である打狗の由来となっている。
倭寇

明代の倭寇は活発に活動し、林道乾の後、万暦年間に水師は三度台湾に倭寇討伐軍を派遣している(1574年、1603年および1617年)。1603年(万暦31年)には沈有容将軍を派遣した際、従軍した陳第により『東番記』が表され、高雄を打狗嶼と初めて記録し、また当時の原住民の生活情況を記録している。
開墾と地方建設時期
オランダ統治時代(1624年 - 1661年)「オランダ統治時代の台湾」も参照

1624年天啓4年)、澎湖で明朝の水師に敗れたオランダ人は台湾に進出し東インド会社を組織し、台湾の統治を開始した。当時の打狗港は台湾南部の重要な漁港であり、オランダ人は打狗をTankoya、打狗港をTancoiaと称していた。オランダ宣教師ハリンタイが表した『オランダ貿易誌』の地図では打狗山を「猿山」(Ape Berg)と記録し、18世紀のヨーロッパの地図の中に散見することができる。オランダ統治時代の台湾は5つの会議区に分けられ、高雄地区は南部地方会議区に所属していた。1630年崇禎3年)、福建省が旱魃に見舞われると明朝の招撫を受けた鄭芝龍が福建巡撫熊文燦に対し福建より移民を台湾に入植させることを建議、これが台湾への漢人移民の嚆矢となった[10]


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