高階為家
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 凡例高階為家
時代平安時代後期
生誕長暦2年(1038年
死没嘉永元年11月17日1106年12月14日
官位正四位下備中守
氏族高階氏
父母父:高階成章
母:藤原宣孝娘・大弐三位
兄弟章行、章親、慶朝、為家、藤原通宗室、藤原通房乳母、藤原伊房
藤原義忠
為章、為賢、為遠、源家実室、
源有賢室、源雅俊室、源信雅室?
養子:為行
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高階 為家(たかしな の ためいえ)は、平安時代後期の貴族正三位高階成章の子。官位正四位下備中守白河上皇の近臣としてだけでなく、関白藤原師実の家司としても仕えた。
経歴

後冷泉朝にて従五位下・周防守に叙任される。

白河朝初頭の延久4年(1072年)ごろ美作守任ぜられたのち、播磨守伊予守近江守と富裕な大国・上国の国司を歴任する一方で、白河院の近臣関白藤原師実の家司も務め、承暦元年(1077年)には正四位下に叙せられている。しかし、寛治7年(1093年)春日神人を暴行したとして興福寺衆徒から訴えられ、為家は近江守を解かれて土佐国配流となった。

のち許されて、承徳3年(1099年丹後守に任ぜられて官界へ復帰し、康和4年(1102年越前守長治元年(1104年備中守と引き続き受領を歴任した。

嘉承元年(1106年)11月14日に出家。最終官位は備中守正四位下。同年11月7日卒去享年69。
官歴

後冷泉朝叙爵従五位下)。周防守[1]

延久4年(1072年) 12月29日:見美作守[2]

承保3年(1076年) 9月3日:見播磨守[3]

承暦元年(1077年) 12月18日:重任、正四位下[4]

永保元年(1081年) 11月3日:見播磨守[5]。日付不詳:伊予守[6]

応徳3年(1086年) 11月26日:重任[7]

寛治3年(1089年) 日付不詳:近江守[8]。12月24日:見近江守[9]

寛治7年(1093年) 正月19日:止中宮亮中宮?子内親王[9][10]。8月28日:配流土佐国[9][11]

承徳3年(1099年) 正月23日:丹後守[12]

康和4年(1102年) 8月10日:越前守[9]

長治元年(1104年) 12月27日:備中守[13]

嘉承元年(1106年) 11月14日:出家(備中守正四位下)[1]。11月17日:卒去[9]

系譜

父:
高階成章

母:大弐三位 - 藤原宣孝紫式部の娘


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