高阪剛
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高阪 剛基本情報
本名高阪 剛
通称世界のTK
格闘技界の賢者
国籍 日本
生年月日 (1970-03-06) 1970年3月6日(54歳)
出身地滋賀県草津市
所属リングス・ジャパン
→チーム・アライアンス
ALLIANCE
身長181cm
体重99kg
リーチ189cm
階級ヘビー級
バックボーン柔道 (四段)
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高阪 剛(こうさか つよし、1970年3月6日 - )は、日本の元男性総合格闘家プロレスラー滋賀県草津市出身。ALLIANCE主宰。元スーパーヘビー級キング・オブ・パンクラシスト

マウントポジションを取られた状態から脱出する技「TKシザース」の開発者として知られる。

先祖は戦国武将の高坂昌信[1]。実兄はプロのジャズドラマー・テルシファー高阪(高阪照雄)。
来歴

幼い頃は兄弟でプロレスごっこをしてよく遊んでおり、常に兄達に勝つ事ばかり考えていた。そんな事がきっかけになり、中学生の頃に柔道を始める。正強高等学校(現・奈良大学附属高等学校)、専修大学全日本プロレス秋山準は同級生で友人)、東レと柔道部に所属。柔道をバックボーンにリングスに入団。同期には坂田亘がいる。

1994年8月20日、鶴巻伸洋戦でデビュー。

1995年10月13日、ザ・トーナメント・オブ・J '95に出場し、優勝を果たした。

1996年1月24日、リングスでモーリス・スミスにギブアップ勝ち。

1997年10月11日、アメリカ合衆国で開催されたグラップリング大会「The Contenders」でトム・エリクソンに判定負け。

1998年にはアメリカに拠点を移し、モーリス・スミスらとトレーニングを行う。同年3月13日、UFC 16キモに判定勝ち。同年10月16日、UFC Brazilピート・ウィリアムスに判定勝ち。

1999年1月9日、UFC 18バス・ルッテンと対戦。TKO負けしたものの「世界のTK」の名を世界の格闘技ファンに轟かせた。だがその後、リングスでギルバート・アイブルに2回に及ぶ敗退、11月のUFC-Jではペドロ・ヒーゾにTKO負けと精彩を欠いた。

2000年7月15日、アメリカで開催されたリングスUSA RISING STARS A Blockを勝ち抜き、決勝大会への切符を手に入れたが、9月30日の決勝大会は欠場した。

2000年12月22日、KING of KINGSの1回戦でイリューヒン・ミーシャにKO勝ち。2回戦でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。高阪が放ったフックでカット・出血によりドクターストップ勝ち。ただし、ヒョードルは反則の肘打ちでのカットだと強く主張。

2001年2月24日、KING of KINGS決勝トーナメントの準々決勝では当時UFC世界ヘビー級王者だったランディ・クートゥアと対戦し、判定負け。

リングス活動停止後はUFC、アブダビコンバットDEEP、新日本プロレス(アルティメット・クラッシュ)などで活躍。リコ・ロドリゲスアントニオ・ホジェリオ・ノゲイラファブリシオ・ヴェウドゥムなどの世界の強豪とも対戦をしている。2003年5月2日、新日本プロレスのリングでドルゴルスレン・スミヤバザル朝青龍の実兄)にTKO勝ち。

2004年2月4日、U-STYLE 1周年興行で田村潔司と対戦し、15分51秒腕ひしぎ十字固めで一本負け[2]

2004年11月7日、初代スーパーヘビー級(+100kg)キング・オブ・パンクラス決定戦でロン・ウォーターマンと対戦し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した。
PRIDE

2005年4月3日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の六-でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと再戦し、劣勢な展開のまま1R終了時にカットによる出血からドクターストップとなり、TKO負けを喫した。

新日本プロレスでは総合格闘技ルールの試合だけではなくプロレスも経験しており、2002年10月14日に新日本プロレス初参戦。NWFトーナメント1回戦で安田忠夫に勝利するも[3]2003年1月4日の決勝で高山善廣に敗れた[4]2005年3月26日の永田裕志戦では胴締めスリーパーで勝利するも、「試合に勝って勝負に負けた」と納得のいかない高阪が再戦を要求(高阪はこの試合で膝を壊され、PRIDEでのヒョードル戦に影響が出てしまった)[5]。5月14日の再戦では、永田にバックドロップホールドを決められ、リベンジを許してしまう[6]

2006年2月26日、PRIDE.31マリオ・スペーヒーと対戦し、パンチラッシュでKO勝ち。試合後のリング上で、同年5月開催の無差別級トーナメントを最後に引退することを宣言。この日は自身の子供の出産予定日でもあった[7]

2006年5月5日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦では、マーク・ハントと対戦し、3R TKO負け。ダウンを奪われながらも立ち上がり、真っ向から殴り合い続け、ハントのパンチでフラフラになりながらも前に出続ける姿に観客から大きな声援が送られた。敗北したことでこの試合が現役最後の試合となった。試合後に控え室を訪れたジョシュ・バーネットが、高阪の引退を想い号泣した。
RIZIN

2015年12月29日、戦う意思が衰えなかったことから、9年7か月ぶりにRIZINで現役復帰。復帰戦となったRIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSジェームス・トンプソンと対戦。1Rから圧倒し、2Rにラッシュを浴びせてTKO勝利。復帰戦を勝利で飾った。

2016年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント 2nd ROUNDで、無差別級GPの2回戦に進出していたイリー・プロハースカが靭帯断裂により欠場し、代役となるはずだったマーク・タニオスも出場できないことから、その代役としてトーナメント2回戦に参戦し把瑠都と対戦。圧倒的な体重差で終始抑え込まれ、0-3の判定負けを喫した。

2017年12月31日、RIZIN.9でPRIDE無差別級GP2006優勝者のミルコ・クロコップと対戦。1R、スタンドで密着した体勢からの細かいパンチ連打で意識を飛ばされTKO負け[8]

2020年1月19日、HEAT 46でサシャ・ミリンコヴィッチと対戦。1R、ミリンコヴィッチのパウンドが高阪の後頭部にヒットし試合が中断。ミリンコヴィッチにイエローカードが提示されたが、この中断の間に高阪が脛の負傷をしていたことからレフェリーが試合をストップ。1Rドクターストップ負けとなった。

2022年3月23日、52歳となり、4月17日のRIZIN.35が引退試合となることが発表された[9]


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