高銀
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コ・ウン
高銀
高銀(2009年10月ポーランドにて)
誕生 (1933-08-01) 1933年8月1日(90歳)
全羅北道群山(現群山市
職業詩人
言語朝鮮語
活動期間1958年 -
ジャンル詩
代表作『萬人譜』
主な受賞歴2002年 銀冠文化勲章
2008年 大韓民国芸術院賞 文学部門賞
デビュー作詩「肺結核」
公式サイト ⇒Ko Un
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高銀
各種表記
ハングル:??
漢字:高銀
発音:コ ウン
日本語読み:こう ぎん
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高 銀(コ・ウン、1933年8月1日 - )は、韓国詩人作家民主化活動家[1]、元僧侶[2]。本名は高 銀泰(コ・ウンテ、???)。

2015年時点で詩作が27ヶ国語に翻訳されており[3]、韓国の報道機関では2002年ごろから2017年に長きに渡り、「ノーベル文学賞候補者」として毎年名を挙げられ[4][5][6]韓国文学のトップの地位にいた[7][8]。しかし、韓国左派へのmetooが多発する中で[9]、1960年代から韓国文学界隈や韓国マスコミ界隈内では公然レベルであった常習的なセクハラが告発されたことで、韓国社会で失脚した[7][8]。告発された後に公の場から隠れ、告発者と報道機関へ損害賠償訴訟をしたが敗訴が確定している[10]
来歴

1933年8月1日、全羅北道群山(現群山市米龍洞龍屯村)に生まれる[2][11]本貫済州高氏。群山中学校中退。1952年、慶尚南道の古刹海印寺に入山し、一超という法名を授かる。僧侶生活を送るなか、1958年に詩「肺結核」を発表した。1960年に初の詩集『彼岸感性』を出版した。

なお、朝鮮戦争時期に龍屯村付近で発生した良民虐殺事件のせいで、左翼活動をしていた高銀の一家親族は村人に白い目で見られ、本人も故郷を離れた後に母と家族に背を向けて続けたためさらに反感を買った。2006年の時点で生家はまともに保存されておらず、その標識も生家からかなり離れたところに設置された[11]
還俗と民主化運動

1962年に僧侶を辞める還俗し、放浪する詩製作活動を開始。1967年から本格的な詩の創作活動を開始[2]朴正煕政権下の1970年代には自由言論実践文人協議会の代表幹事となっていた。そして当時獄中にあった詩人金芝河の救援運動など韓国民主化運動に参加、たびたび投獄された。1979年民主主義と民族統一のための国民連合副議長になった[2]。1980年、在野の民主化運動家だった金大中らとともに国家保安法違反で逮捕され[1]、懲役10年の判決を受けた。1982年、刑の執行停止で出獄した[2]。軍法会議にかけられ、懲役10年の判決を受けたが’82年に刑の執行停止で出獄した。1987年から韓国民族文学作家会議(作家会議)副議長として獄中作家の釈放運動を行った[2]
韓国の民主化以降

1988年、『創作と批評』誌の万海文学賞を受賞。韓国と北朝鮮の作家や芸術家同士が交流することに力を入れており、南北作家会談の代表団長も務めている。韓国芸術総合学校で教鞭もとる。2000年6月の南北首脳会談の際には金大中大統領に同行し、南北両首脳の前で統一への思いを詠んだ詩を朗読した。また2014年には京畿道水原市に建立された慰安婦像の除幕式に出席し、詩を捧げた[12]

韓国では韓国文学を代表する人物として尊敬され、ノーベル賞発表時にほぼ15年間にわたって受賞の期待で話題に上っていた[13]。特に2017年には韓国右派の朴槿恵政権の退陣を主張し、韓国左派の文在寅新大統領[14]を生んだろうそく集会(朴槿恵大統領退陣運動(朝鮮語版))に積極参加し、それに関わる詩も発表していた[15]
歴年のセクハラへの告発


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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