高野新笠
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高野 新笠
第50代天皇母
皇太后(追贈)
延暦9年(790年
太皇太后(追贈)大同元年(806年)5月19日

薨去延暦8年12月28日790年1月17日

陵所大枝陵(現在の京都市西京区大枝沓掛町)
旧名和新笠
氏族和氏 → 高野氏
父親和乙継
母親土師真妹
配偶者光仁天皇
子女能登内親王
桓武天皇
早良親王
皇太夫人天応元年(781年)4月15日
立后前位階正三位
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高野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳[1] - 延暦8年12月28日[2]790年1月17日))は、光仁天皇宮人、後に夫人桓武天皇早良親王能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后諡号は天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと[3])。

先祖は百済の武寧王である。父は百済の夫餘氏の子孫で和氏の史姓和乙継(やまとのおとつぐ)[1]、母は宿禰姓土師真妹(はじのまいも)[1](真?とも)[4]。高野朝臣(たかののあそん)は光仁天皇即位後の賜姓。
生涯

天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の宮人(側室)となり、天平5年(733年)に能登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生む。

白壁王は、天平16年(744年)以後、称徳天皇の異母妹、井上内親王を正妃に迎える。そして宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御により天武系皇統が断絶すると、62歳で擁立され光仁天皇となった。皇后には井上内親王、皇太子にはその子他戸親王が立った。

新笠の甥、和家麻呂が議政官に任ぜられた際、「蕃人の相府に入るはこれより始まる」と記された。しかし、宝亀3年(772年)3月に井上皇后は、呪詛による大逆を図った罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月に廃太子となった。翌宝亀4年10月には母子ともに庶人に落とされ、大和国の没官の邸に幽閉。2年後の宝亀6年(775年)4月27日に幽閉先で死去した。

この間、宝亀4年(773年)1月2日に新笠の子、山部親王(後の桓武天皇)が立太子し、藤原式家乙牟漏を妃に迎える。宝亀5年には、王子(のちの平城天皇)が生まれた。

新笠は宝亀9年(778年)1月29日、従四位下から従三位となる[5]。この頃「高野朝臣」を賜り夫人となったが、立后はされず、藤原北家の藤原永手の娘で皇子女のいない藤原曹司が、新笠に先んじて従三位・夫人の位にあった[6]

天応元年(781年)4月15日、山部親王が桓武天皇として即位すると、新笠は皇太夫人と称された[7]。同年4月27日、新笠は正三位に昇叙[8]。皇太子に桓武天皇同母弟・早良親王が立ったが、延暦4年(785年)、早良親王は藤原種継事件に連座し淡路へ流される事となり、自ら命を絶った。大枝陵。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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