高野山金剛峯寺
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金剛峯寺

根本大塔
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山132
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度12分50.7秒 東経135度35分3秒 / 北緯34.214083度 東経135.58417度 / 34.214083; 135.58417座標: 北緯34度12分50.7秒 東経135度35分3秒 / 北緯34.214083度 東経135.58417度 / 34.214083; 135.58417
山号高野山
宗派高野山真言宗
寺格総本山
本尊薬師如来阿?如来とも)[注釈 1]
創建年弘仁7年(816年
開基空海
中興年長和5年(1016年
中興定誉木食応其
正式名高野山真言宗 総本山金剛峯寺
札所等真言宗十八本山18番
西国三十三所特別札所
神仏霊場巡拝の道 第13番(和歌山第13番)
文化財不動堂、絹本著色仏涅槃図ほか(国宝
大門、絹本著色大日如来像ほか(重要文化財
世界遺産
公式サイト高野山真言宗 総本山金剛峯寺
法人番号5170005004842
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金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山寺院。正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。

高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部[1]

「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。
概要
空海と高野山

空海は、最澄天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。空海宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)としてに渡航。長安・青龍寺の恵果に密教の奥義を学び、大同元年(806年)帰国している。

空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を、高い峰々を蓮の花に見立て八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)として、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。
開創伝承

弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海は高野山の地を賜った。若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている。なお、平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れた。空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神を祭る祭祀者(原始修験者)であると解釈されている。つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとされている。高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇し、壇上伽藍の御社(明神社)において現在でも祀られている。また丹生都比売神社でも、丹生明神と狩場明神が祀られ、金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。
入定信仰

空海が天長9年(835年)奥之院に入定後、86年経った延喜21年(921年)に東寺長者の観賢の上奏により醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った。観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、入定した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた[2][3]
結界

空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている。また高野山全域の結界の中に更に二重の結界が張られ、その二重の結界内部は、のちに信仰の中心となる伽藍を建立する壇上(壇場)とされた[4]

結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた[5]
肉や魚を持ち込まない。食べない。

女人禁制。

遊芸に関わる鳴り物をしない。

鶏と猫を飼わない。

女人禁制により女性が山内に入ることができず、高野参詣道の終着点の高野七口といわれる結界への入り口付近に女性たちの籠もり堂(参籠所)として女人堂ができ[6]、各女人堂をめぐる結界に沿ってできた参詣道が女人道である[7]1872年明治5年)明治政府が太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」を発布し[8]、女人禁制が廃止されたが、実質、高野山において公式に女人禁制が解かれたのは高野山開創1100年記念大法会にむけて、高野山の結界残部を残らず解除した1906年(明治39年)である[9]

遊芸に関わる鳴り物をしない禁を破ったことに関する逸話として、豊臣秀吉が、母大政所三回忌の際に高野山開創以来の禁令の笛太鼓や鼓などを用いた能狂言を催したところ、当日、雲がなかったが、能が始まると暗雲が広がり、天地が振動し凄まじい雷雨が襲った。大師の怒りと恐れおののいた秀吉は、単騎一目散に山を駆け降り難を逃れたと伝わる[10]

鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである[5]
高野三方

平安時代以降、江戸時代まで存在した高野山の僧徒の三派の称で、学侶、行人、聖で構成され、明治になり廃止、統合された[11]。通称「高野十谷」といわれる谷ごとに学侶や行人の坊が造られ、多くの子院・塔頭があった[12]。学侶、行人、聖の順に階級的要素があり、聖が一番下層に見られる傾向があり、度々派閥的争いがあった。

学侶 - 学侶方ともいわれ、純粋な真言密教の教義、学問、法会などの学業修行に努めた僧衆[11]。貴族の子弟も多くいた[12]。代表寺院は、青巌寺であった。

行人 - 行人方ともいわれ、修験的傾向が強く、学侶が法会などの行事を行うときに裏方でサポートを行う。「承仕」という灯明・線香を灯すなどの雑務や、夜間の堂宇の見張りをする堂守り、諸堂建立や寺領・荘園管理、外敵から高野山を守る僧兵もした僧衆である[11][12]。代表寺院は、興山寺であった。

- 聖方ともいわれ、高野山に集まった聖は高野聖とよばれ、代表寺院は、大徳院であった。行人から派生した僧や他宗派、霊場などから入山したり、また高野山へ隠遁して念仏修行した僧衆。のちに諸国を遍歴し説法、勧進、護符や薬草を売る行商を行ったり、高野山への納骨・納髪を勧め、高野山の経済を底辺から支えた。その活動範囲は、一般庶民から、貴族、皇室にいたり、活動で得た浄財は高野山へ納め、その一部を自身の収入とした。高野山の浄土信仰と弘法大師信仰を日本全国へ広めるうえで大きな存在だった。公に認められていた官僧は皇室や貴族のために存在していたため、聖が諸国を遍歴するまでは一般庶民が死者供養できなかった[11]。高野山へ訪れることができない人々に空海との結縁を作り、説教節とよばれる講談調の「苅萱」の語り手でもあり、庶民の娯楽にもなった。また日本各地の空海が訪れたことがない場所での弘法大師伝説は高野聖の活動によるといわれる[13]。山内に別所とよばれる庵を作り真言密教とは違う浄土信仰と念仏信仰を説いたため、学侶方から疎まれる存在であった[14]。高野山は真言密教の修禅道場であるが、浄土信仰ゆかりの地ともいわれ、浄土信仰の教えを説く僧が入山し高野聖となった者も多く、中興の祖といわれる覚鑁も聖方で、真言密教と浄土教を統合した教えを説いている[15]

高野十谷

高野山内は、壇上伽藍、奥之院と十谷とよばれる十の地区で構成されている。各谷には学侶や行人の塔頭・子院が立ち並び、各谷ごとに共用の堂宇や湯屋などの施設があり、谷ごとに講などが行われていた。現在においても117か寺が存在する(後述)。この他に、念仏を唱える聖(念仏聖)が集まった十谷から離れた「別所」とよばれる場所もあった[16]

奈良東大寺の大仏勧進で知られる重言が再興した別所は「真別処」(正式名称:高野山事相講伝所円通律寺)とよばれ、現在でも女人禁制の戒律を守り、年に1度、旧暦の花祭り(釈尊降誕会)のときだけ、一般に開放され女性も参拝できる[17]

高野十谷西院谷往生院谷
南谷蓮華谷
谷上院谷千手院谷
谷中院谷五之室谷
小田原院谷一心院谷

歴史
平安・鎌倉時代

弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から実恵円明などの東寺にいた弟子達に命じ草堂を建てさせ、819年に空海が高野山に結界を張り伽藍の建立に取りかかったが、国の援助を得ずに人々からの勧進による私寺建立を目指したこと、交通不便な山中であること、また朝廷からの要請による821年の香川県満濃池の修築や828年の京都の綜芸種智院の開設などにより、空海が多忙であったことで、工事ははかどらなかった[18]。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。承和2年(835年)には定額寺に列し官寺に准ずる寺格を得た(『続日本後紀』承和八年二月七日条)。空海の入定(835年)の後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した[19]

真然が空海が恵果から教わった奥義や経典を書写した「三十帖策子(三十帖冊子)」を東寺から借り出したが、「三十帖策子」を所有することで真言宗の根本寺院を意味したので、その後の東寺からの返却要請に応じず、紛争の原因となった[20]


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