高野参詣道
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高野参詣道(こうやさんけいみち)は、空海(弘法大師)が開山した日本を代表する真言密教の聖地「高野山」に、徒歩で登拝するための参詣道(古道)である。高野七口と呼ばれる7つの主たる参詣道があり、それ以外にも「高野七口」へ繋がる「参詣道」(以後「その他参詣道」と表記する)がある[1][2]

国の史跡に「高野参詣道」として指定されている[3]ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する資産として「高野参詣道」が登録されている[4]
概略

高野参詣道は、空海が開創した真言密教の聖地「高野山」と、外界(俗世)を結ぶ参詣道(古道)である。高野山は、和歌山県北部の伊都郡高野町に位置し、標高約900mの山上にあるが、「高野山」という山があるのではなく、標高千メートル級の山々に囲まれた盆地状の山域の総称である[5]。高野山の地形は「八葉蓮華」に例えられ、高野山の周囲の山々である外輪山を、古来より「外八葉」と呼ぶ[6]。八葉とは蓮の花びらを象徴する。また内輪山を「内八葉」と呼び、外八葉と合わせて16葉の山々を金剛界曼荼羅の十六大菩薩に相当させ、蓮の花を象徴する曼荼羅の中心に高野山があるとされる[7][8]。高野山内の子院数は、1600年代中頃が最盛期で1865院にも及び[9]、1692年(元禄5年)に江戸幕府によって大幅に減らされるが[9]、1832年(天保3年)に812院あったと記録に残り、現在でも117か寺が立ち並ぶ一大宗教都市であり[10][11]、かつて高野参詣道は多くの参詣者で賑わった。
高野参詣の歴史的背景

高野山が「参詣すべき霊場」と多くの人々が認識する契機となったのは、11 - 12 世紀ごろにおける上皇・貴族などの権力者による高野参詣である[12]。最たる例は、1023年(治安3年)太政大臣藤原道長、1048年(永承3年)関白藤原頼通、1088年(寛治2年)白河上皇などの参詣である[12]。その背景には「入定信仰」と「高野浄土信仰」がある[12]。空海が835年(天長9年)奥之院に入定後、921年(延喜21年)に後醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った[13]。この時、東寺長者の観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟にて、禅定に入ったまま(入定)の空海(即身仏)を見て、その姿は普段と変わりなく生き生きとしていたと伝えたことから、「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた[14]。これは空海が高野山奥之院御廟で、弥勒菩薩がこの世に現れるまで生き、人々を救済し続けるという信仰である[12][10]。「高野浄土信仰」は、「一度参詣高野山、無始罪障道中滅」というものであり、高野山に一度でも参詣すれば、すべての罪が道中において消える[12]、もしくは、一度参詣すれば罪が消えるという信仰である[15]。これらの信仰による権力者の高野参詣は人々に大きな影響を与え、庶民による高野参詣が増えた[12]。高野山開山当初から存在する表参道であり、主要参詣道だった町石道は、仏塔である町石が並び、行(ぎょう)のための道とされ、歩いて登らなければ功徳が少ないと信じられ[16]、皇族・貴族であろうが、身分の差に関係なく誰もが徒歩で聖地「高野山」を目指すようになった[17]。このような高野信仰が皇族・貴族の参詣に始まり、武士や庶民にまで広まり高野山が発展したが[18]、近世以降は、高野山を一つの名所として参詣する者も増え、より距離が短く早く参詣できる京大坂道が主要参詣道となった[19]。現在では、電車・ケーブルカーを乗り継ぐ、もしくは車で高野山へ参詣することができるが、かつて徒歩で聖地・高野山へ登った参詣道(古道)が高野参詣道である。

年表:主な権力者の高野参詣と高野山との関わり[20][21]年年
900年宇多法皇参詣1334年後醍醐天皇御願による愛染堂建立
1023年藤原道長参詣1344年足利尊氏参詣
1048年藤原頼通参詣1389年足利義満参詣
1088年白河上皇参詣1581年織田信長の高野攻め開始(翌年:信長没)
1124年鳥羽上皇参詣1585年豊臣秀吉と和議
1156年平清盛を奉行として大塔落慶1594年豊臣秀吉参詣
1169年後白河法皇参詣1594年徳川家康参詣
1207年後鳥羽上皇参詣1599年石田三成が経蔵建立
1223年北条政子金剛三昧院建立1848年紀伊徳川家が御影堂を再建

高野信仰により各時代の権力者が高野山へ参詣し、または伽藍建立などに関わった。織田信長は高野攻めをするが、後に豊臣秀吉が高野山と和議し、庇護することに繋がる。
おもな参詣道

外界(俗世)から聖地「高野山」へ通じる入り口が7つあり[22]、それら入口に繋がる参詣道は峠を進み、中には険しい道もある。空海が切り開き、かつて最もよく使われた表参詣道とよばれる「町石道」等、参詣者の出発地点に応じた7つの主要な参詣道が、7つの入口へと繋がる。それら入り口と、それに繋がる参詣道は、総称して「高野七口」とよばれる[1][23][24]。また、主要参詣道の高野七口以外に、高野七口へ繋がる、その他参詣道がある[1]

「高野七口」の、外界(俗世)から聖地「高野山」への入り口7つと、それに繋がる各参詣道を「入口名 - 参詣道名」として、次にあげる[25][22]

「大門口 - 町石道

「黒河口 - 黒河道 (高野参詣道)

「不動坂口 - 京大坂道

「大滝口 - 小辺路熊野古道)」

「大峰口 - 大峰道」

「龍神口 - 有田・龍神道」

「相ノ浦口 - 相ノ浦道」

高野七口に繋がる、その他参詣道で主なものを次にあげる[1][22]

三谷坂」:丹生酒殿神社を起点とし町石道に繋がる。

「麻生津道」:和歌山城下方面からの参詣者や西国巡礼者が利用し、町石道に繋がる。

女人道」:高野七口にある女人堂を巡る道である。


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