高遠藩
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高遠藩(たかとおはん)は、信濃国南信地方伊那郡(現在の長野県伊那市高遠に所在した。居城は高遠城
藩の前史

高遠の地は戦国時代諏訪氏の一族であった高遠頼継が治めていた。頼継が武田信玄(晴信)との戦いで没落した後、高遠は武田氏の支配下に入る[1]

後に信玄の5男で勝頼の異母弟仁科盛信が高遠城主となり、天正10年(1582年)2月に織田信長による甲州征伐が開始されると、信濃の武田勢は次々と信長の嫡男信忠率いる織田軍に降伏していくが、高遠城を守る盛信のみは信忠の降伏勧告を拒絶して果敢に抗戦、織田軍は3月2日に高遠を攻撃して1日で落城させ、城主盛信は自害した[2]。武田家は盛信の玉砕で総崩れになり、勝頼は3月11日に天目山で自害し、武田家は滅亡した。

その3ヵ月後の6月、本能寺の変が起こって信長・信忠が横死。信濃の織田勢は武田旧臣の一揆で追放されて無主状態になると、徳川家康北条氏直上杉景勝らによる旧武田領をめぐる天正壬午の乱が起こる。高遠は高遠氏の旧臣保科氏内藤昌月の支援を得て奪回し[3]、昌月の実父である保科正俊が城主となった。10月、正俊の子正直は家康に服従し、伊那郡2万5000石の所領を宛がわれた[3]。正直はその後、伊那箕輪の藤沢頼親を降伏させた[3]。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが起きると、家康は正直や諏訪頼忠小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したがこの木曾攻めは成果を上げず、正直を抑えに残して撤退した[3]。天正13年(1585年)、家康と北条氏直の和睦の条件である上野沼田領の譲渡問題で真田昌幸が家康から離反したため、家康は大久保忠世に正直ら信濃衆をつけて攻撃するも[3]大敗して撤退。しかも11月に石川数正が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が高遠に攻撃をかけるが、保科正俊が鉾持除の戦いで退けた[3]。正直はその後、家康の異父妹久松氏と縁戚となって勢力を伸ばし[3]、天正18年(1590年)の小田原征伐でも徳川軍の後備えとして参戦した[4]後北条氏が滅亡して家康が関東に移封されると、正直は家康に従って下総多胡で1万石を与えられた[4]豊臣時代最後の領主、京極高知

家康が関東に移ると、旧徳川領は豊臣秀吉の家臣が入封することとなり、伊那には毛利秀頼が10万石で入った[4]。甲州征伐の功により伊那郡を与えられて信長没後の混乱で失領し、復帰したものである[5]。秀頼は入封した直後に3か条からなる条々を発布して統治方針を示し、太閤検地も実施したが、実際の政務は勝斎(姓不詳)と篠治秀政が担当していた[4]。秀頼は文禄2年(1593年)に病死[4]。その妹婿である京極高知が跡を継いだ。高知時代には岩崎重次が城代として統治を担当したが、統治体制には不明な点が多い[4]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで高知は東軍に与力して岐阜城攻略戦に参加し、9月15日の関ヶ原本戦にも参加した功績から[6]、戦後に丹後宮津に移封され、岩崎も甲斐に帰国した[4]
藩史
保科家の時代高遠藩第2代、保科正之

関ヶ原の戦いの後、高遠には正直の子正光が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立した[7]。正光は慶長11年(1606年)の江戸城石垣修理や5年後の堀普請、大坂の陣参戦など幕府に奉仕している[8]。しかし正光には嗣子が無かったので[9]、正光は第2代将軍・徳川秀忠の隠し子(生母が正室・於江与ではなかったため、その悋気に触れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと保科正之を養育することになった。元和4年(1618年)には正之の養育料として筑摩郡に5000石を加増された[10]寛永6年(1629年)6月に正之は兄の第3代将軍徳川家光と初対面し、寛永8年(1631年)11月、正光の死により正之が家督と3万石を継いで従五位下肥後守に叙任されたが[10]、この頃になると於江与が既に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事実となったため、徳川家光の計らいにより、正之は寛永13年(1636年)7月に出羽山形藩20万石に加増移封された[10]
鳥居家の時代鳥居家勲功の祖、鳥居元忠

正之と入れ替わりで、山形より鳥居忠春が3万2000石(3万200石[11])で入る。この忠春は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した元忠の孫である。鳥居家は元忠の勲功やその子忠政の功績もあり、24万石まで栄進していた。ところが忠政の子忠恒は病弱で公務が務まらず、しかも継嗣が無く33歳で病死したので、末期養子の禁令に触れてしまい、鳥居家は山形24万石を没収された[11]。しかし幕府は元忠の勲功を認めて、忠恒の実弟忠春に3万200石を与えることで高遠藩に移封した[12]

忠春は兄の時代に失った24万石を取り戻そうと幕府の御用に励んだ[13]。だがそのために藩財政は大きな負担を伴い、忠春は財源確保のために慶安2年(1649年)に年貢を増徴したため、領民は生活困窮と賦役に耐え切れず、承応3年(1654年)6月に3000人の百姓が尾張藩領の木曾に逃散する事件も起きた[14]。また忠春自らも豪遊したりした[15]。寛文2年(1662年)、忠春は侍医・松谷寿覚により斬りつけられ、それが原因で客死した[16]

忠春の跡を継いだ子の忠則は、元禄2年(1689年)2月に江戸城馬場先御門の警備を担当していた家臣高坂権兵衛が職務中、幕府御側衆の平岡頼恒の屋敷を覗いていたところを、平岡家の家臣に取り押さえられる事件が起こった(高坂権兵衛事件)[17](高坂は主家に累が及ぶことを恐れ、取り調べ中に自害)。


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