高輪芳子
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高輪 芳子

基本情報
生誕 (1915-03-06) 1915年3月6日
出身地 日本統治下朝鮮 慶尚北道尚州市
死没 (1932-12-12) 1932年12月12日(17歳没)
大日本帝国 東京府東京市四谷区四谷番衆町 新宿園アパート
職業歌手
活動期間1930年 - 1932年
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高輪 芳子(たかなわ よしこ、1915年大正4年〉3月6日 - 1932年昭和7年〉12月12日)は、日本の歌手である。松竹楽劇部を経てムーランルージュ新宿座の舞台に立ち、『ペチカの歌』などでファンの人気を獲得した[1][2]。しかし、1932年〈昭和7年〉12月にファッション評論家の中村進治郎(1907年〈明治40年〉 - 1934年〈昭和9年〉)と情死をはかり、その結果彼女のみが死去している[1][3](中村自身も2年後に死去)。
生涯
生い立ちからムーランルージュ新宿座まで

本名は山田 英(ひで、または英子とも[2])といい、高輪 芳子は芸名である[2][4]。1915年(大正4年)、憲兵下士官山田覚吾を父として慶尚北道の尚州で生まれた[注釈 1][4]。父は職業柄転勤が多く、幼い彼女も父の任地である尚州、東京、南満州を転々としていた[4]

1925年(大正14年)春、一家は覚吾の新たな任地である佐賀県に移り住み、同年秋には長崎県に移転した[4]。乾燥した満州の風土と違って湿気の多い内地の気候が芳子の体質に悪影響を及ぼし、翌年には軽い胸部疾患との診断を受けて1年間の休学を勧められた[4]。このときの病状は後に小康を得ている[4]

芳子の病弱な体質は父覚吾譲りのものであった[2][4]。覚吾はその後陸軍を退職して病気療養に努めていた[4]。しかし覚吾は、1929年(昭和4年)5月3日に大刀洗飛行場に近い故郷で42歳で死去した[4]

芳子の女学校入学のために福岡に移っていた母さだ子は、覚吾の葬儀を済ませると急遽2人で東京に行くことにした[2]。母と娘の落ち着き先は、東京市淀橋区柏木(現在の新宿区北新宿四丁目付近)の借家であった[4]。覚吾が遺した恩給はわずかだったため、さだ子は毎日のように職を求めて歩き回った[4]

生来歌を好んでいた芳子は、音楽学校への進学を希望していた[4]。そのためには女学校の課程を修了する必要が生じたことによって、昭和高等女学校に通学する日々を送っていた[4]

当時の昭和高等女学校は自由で明るい校風だったといい、芳子はこの学校を気に入った[4]。彼女は文学に耽溺し、愛読書は石川啄木の詩集とゲーテの『若きウェルテルの悩み』、そして夭折の少女詩人清水澄子の遺稿集『さゝやき』であった[4]。中でも『さゝやき』は後々まで彼女の生死に関する思想に影響を及ぼし、やがて死への願望を持つようになった[4]。彼女の口癖は「私も十九の厄年で死ぬんだわ」というものだった[4]

1930年(昭和5年)5月、芳子は松竹楽劇部の5期生となり、舞台人としてのキャリアが始まった[2][6][7]。面接で応募の動機に話が及んだとき、「お父さんが死んで、お母さん一人です。ですから、あたしの手でお母さんを養って孝行したいと思います」と答えている[4]。このとき、楽劇部の試験官が東京市電の停留所から思いついた「高輪芳子」という芸名を与えている[4]。美しい声の持ち主だった彼女はすぐに頭角を現し、「松竹楽劇部の歌を一人で背負って立っていたプリマドンナ」などと高い評価を受けた[1][2][6][8]。ただし芳子は1人で物思いにふけることを好み、楽屋の奈落近くの薄暗がりにいることが多かったと伝わる[9]

松竹楽劇部での当たり役は1932年(昭和7年)5月に開かれた歌舞伎座での公演『ベラ・フランカ』での歌い手役で、当時のスター夢野里子の代役として舞台に立ち、レビューファンから好評を博した[2][5]。しかし、松竹楽劇部は「松竹少女歌劇」と改称して方針を転換し、声楽専科を設けて声楽スターを養成することになった[2][5]。このとき本格的な声楽教育を受けていなかった彼女は、将来に不安を覚えたといわれる[2][6][5]

芳子は病弱な上、家庭にも問題を抱えていた[2][10]。彼女は実母のさだ子を「継母ではないか」と疑い、親しい人々に言いふらしていた[10]。それは父覚吾と母の婚姻届が芳子の出生から3年経過した1918年(大正7年)3月10日に出されていたためであったという[10]。その上さだ子は、芳子の婚約者である日本大学の医学生、井川四郎と不倫関係に陥っていた[1][10][5][11]

井川は、柏木の借家が女2人で不用心だからと置いた下宿人であった[11]


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