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高輪皇族邸
正門
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情報
旧名称高松宮邸
用途上皇・上皇后の仮住居
旧用途高松宮・高松宮妃の住居
延床面積3,476 m²
階数地下1階、地上1階(一部2階)
着工1972年(昭和47年)
竣工1973年(昭和48年)
所在地〒108-0074
東京都港区高輪1-14-1
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度38分26秒 東経139度44分10秒 / 北緯35.64056度 東経139.73611度 / 35.64056; 139.73611 (高輪皇族邸)座標: 北緯35度38分26秒 東経139度44分10秒 / 北緯35.64056度 東経139.73611度 / 35.64056; 139.73611 (高輪皇族邸)
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高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)は、東京都港区高輪にある皇室関連施設。大正時代に東宮御所が置かれ、戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)まで高松宮宣仁親王と宣仁親王妃喜久子の住まいだった。2020年(令和2年)3月31日から2022年(令和4年)4月12日まで上皇・上皇后の仮住まいとして使用され、『仙洞仮御所(せんとうかりごしょ)』という名称だった。 宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き1904年(明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1923年に威仁親王妃慰子が薨去したあとは東京府東京市麹町区三年町(現・東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承した。 昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣官邸に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・港区高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1913年(大正2年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。 1930年(昭和5年)、宣仁親王と故・徳川慶久公爵次女の喜久子が結婚。翌1931年(昭和6年)、高輪御殿には宮内省内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観はチューダー様式、内装は折衷様式とし、地下1階は自動車庫、汽罐室などが、1階は公室エリアとして謁見室、大客室、大食堂、小客室、応接間、テラス、御休所、ティールーム、植物室、パーゴラなどが、2階は私室エリアとして表広間、御寝室、御談話室、御朝餐室、御呉服室、殿下御書斎、殿下御居間、殿下浴室、妃殿下御居間、妃殿下更衣室、妃殿下浴室、予備官室、高等官室、御予備室(客室)などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、近江神宮に移築)を鎮座した。 幸い、太平洋戦争の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、財産税物納のため半分に縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパート、港区役所
歴史
夏季は、邸内のプールを近隣の学生に開放し、1950年(昭和25年)夏、1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形金メダリスト、北村久寿雄による模範水泳を、宮邸に隣接する高松中学校の全校生徒を招いて披露した。[1]
光輪閣は老朽化で1972年(昭和47年)に解体され、翌年、跡地に地上1階(一部2階)・地下1階建て鉄筋コンクリート造の宮邸新本館を建設。
1987年(昭和62年)2月に宣仁親王が82歳で薨去。1991年(平成3年)10月、宮務官が邸内の蔵から殿下御日記(1921年?1946年分20冊)を発見。喜久子妃の意向を受け、細川護貞、阿川弘之、大井篤、豊田隈雄が日記編纂委員会を宮邸内に設け、1996年(平成8年)から中央公論社より『高松宮日記』全8巻として刊行。2004年(平成16年)12月に喜久子妃が92歳で薨去し高松宮家は絶家となる。宮家職員は2006年(平成18年)末までに離職。 この記事は更新が必要とされています。
喜久子妃の薨去後
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2005年(平成17年)以降、旧高松宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。職員住宅が建てられていた敷地南東部の約1,800平方メートルは喜久子妃薨去後に払い下げられ、住友不動産が2007年(平成19年)、高級分譲・賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居し、事務所内には旧宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。
また、高松宮は有栖川宮から翁島別邸(福島県耶麻郡翁島村他)・葉山別邸(神奈川県三浦郡葉山村)と麻布御用地(東京府東京市麻布区、現在の東京都港区南麻布他)を引き継いだが、麻布御用地は1934年(昭和9年)東京市に下賜され、有栖川宮記念公園として整備された。