高車(こうしゃ、?音:G?och?)は、4世紀から6世紀の中国の五胡十六国時代・南北朝時代にモンゴル高原の北に存在したテュルク系遊牧民の中国での呼び名。または、阿伏至羅(あふくしら、?fuzhiluo)が自立して建てた阿伏至羅国(阿伏至羅)を指す。4世紀後半、柔然可汗国と高車。
モンゴルの歴史モンゴルの歴史 原名は“車”を指すモンゴル語telegem(テレゲン)、terege(テレゲ)に由来すると考えられ、丁零・鉄勒はその音訳[2]で、高車はその意訳であると考えられる。P. A. Boodbergは『Three Notes on the T'u-chueh Turks』[3](1951年)において、丁零を古アルタイ語で“車”を指すTerege,Telegenと関連するTerek,Telekに比定し、後に“高車”と呼ばれることに信憑性を持たせた[4]。 昔、匈奴の単于に2人の美しい娘がいた。単于は娘たちを天に与えようとして高い台を築き、その上に2人を置いて天が迎えに来るのを待ったが、迎えは来なかった。4年たつと、1匹の老いた狼がやって来て台の下に穴を掘り、居着いてしまった。妹はこの狼こそが天の迎えだと判断し、姉が反対するのを振り切って台をおり、狼の妻となった。その間に生まれた子供が高車の祖先だという[6]。 このような狼祖伝説 以下の記述は『魏書』、『北史』による 周代に赤狄(せきてき)と呼ばれた民族の余種は、やがて狄歴(てきれき)と号し、北方民族からは勅勒(ちょくろく)と呼ばれ、中国では高車・丁零と呼ばれるようになる。 代国の建国26年(363年)10月、代国は高車を討ち、これを大破する。 建国33年(370年)11月、代国は高車を征し、これを大破する。 建国39年(376年)11月、代王拓跋什翼?が前秦の苻堅に敗北すると、高車雑胡が相次いで反乱を起こす。 北魏の登国3年(388年)、北魏の道武帝は西へ親征し、弱洛水を渡り、西行して高車の解如部に赴き、女水に至り、解如部を討ってこれを落破した。 登国4年(389年)1月、道武帝は高車の諸部落を襲い、これを大破。2月、女水に至り、叱突隣部を討ち、これを大破した。 登国5年(390年)3月、道武帝は西征し、鹿渾海にて高車の袁?部を襲い、これを大破し、生口・馬牛羊20余万を獲得した。10月、道武帝は雲中に遷り、高車の豆陳部を狼山で討ち、これを破る。11月、?奚部の大人(たいじん:部族長)の庫寒は?奚部を挙げて北魏に内属した。12月、?突隣部の大人の屈地?は?突隣部を挙げて北魏に内属した。 登国年間(386年 - 396年)、侯呂隣部の大人の叱伐は苦水河で侵入略奪をしたので、登国8年(393年)夏、道武帝はこれを大破し、その別帥の焉古延らを捕えた。 皇始2年(397年)、?突隣部の部帥の匿物尼・?奚部の部帥の叱奴根らはふたたび陰館にて叛き、南安公拓跋順はこれを討つが勝てなかった。これに対し道武帝は、安遠将軍の?岳を派遣して匿物尼らを討ち、皆殺しにさせた。 天興3年(400年)11月、高車別帥の咥利曷莫弗の勅力?は、900余落を率いて内属し、道武帝は勅力?を拝して揚威将軍とし、司馬・参軍を置き、穀2万斛を賜う。 天興4年(401年)1月、高車別帥の解批莫弗の幡豆?はその3千余落を率いて内附し、道武帝は拝して威遠将軍とし、司馬・参軍を置き、衣服を賜った。また道武帝は、常山王拓跋遵を派遣して鮮卑別種の破多蘭部を高平で討たせた。その大人の没?干は数千騎を率いて国を棄てて遁走したので、道武帝はそこの人民を京師に移した。破多蘭部の余種は分散したが、その後赫連勃勃に滅ぼされる。 天興5年(402年)、材官将軍の和突 天興6年(403年)、道武帝は将軍の伊謂
モンゴル高原
??葷粥山戎
戎狄
月氏匈奴東胡
南匈奴
丁零鮮卑
高車柔然
鉄勒突厥
東突厥
回鶻
黠戛斯達靼契丹
ナイマンケレイト大遼
(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元(嶺北行省)
北元
(ハルハ・オイラト)
大清(外藩・外蒙古)
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
名称
構成部族・氏族
部族
狄部…古の狄族
袁?部…後の迴?(韋?・回?・回鶻、ウイグル:Uyγur)部
斛律部
解批部
斛斯部
護骨部…後の僕骨(僕固、ボクトゥ:Boqut)部
異奇斤部
烏頻部
豆陳部
吐突隣部
解如部
?突隣部
?奚部
侯呂隣部
薛干部
破多蘭部…鮮卑の別種
黜弗部
素古延部
越勒倍泥部
十二氏族
叱伏利氏
吐盧氏
乙旃氏
大連氏
窟賀氏
達薄氏
阿侖氏
莫允氏
俟汾氏…後の宇文部[5]
副伏羅氏
乞袁氏
右叔沛氏
起源
歴史代国の拓跋什翼?の時代の高車北魏の道武帝の時代の高車4世紀後半、柔然可汗国と高車。
起源詳細は「丁零」を参照
代国(拓跋部)の時代
北魏の時代
天賜5年(408年)、夏の赫連勃勃はことごとく薛干部を略奪して服属させた。
永興5年(413年)、越勒倍泥部は跋那山の西に移転した。7月、明元帝は山陽公奚斤を派遣してこれを討ち破り、その人民を移す。
泰常3年(418年)1月、明元帝は護高車中郎将の薛繁に高車丁零十二部の大衆を率いさせて北略し、弱水に至り、降者2千余人・牛馬2万余頭を獲得した。
神?2年(429年)8月、太武帝は東部高車が巳尼陂に駐屯していると聞き、詔で左僕射の安原に万余騎を率いさせてこれを討伐した。